
日本アルプス穂高 標高3190メートル 厳冬期のこの時期にこの山に登れるのは限られた人だけ。その人も又穂高の神に選抜される。どんなに山登りのスペシャリスト(専門家)でも、悪天候の中を征服するのは至難の業に違いない。
この高さを鉄道で登る。しかもその工事は今から100年前の事だとしたら、この国の人達の考えでは発想そのものが無い。仮に今でもあのスイスの鉄路の工事が出来るかと問われればノーだろう。それ程に山に対する情熱、畏敬(いけい)の念が違う。
そんな事を思いながら穂高の夏山登山ルートを眺めていると、かりんとうが一袋空になる。メタボな体型を変えなければと思いながらも、食い過ぎの食生活に歯止めを掛けられなければ改善は無い。これから間違いなく問われる事は健康管理。
高齢者は言う迄もなく若者達、働き盛りの現役世代、老若男女全ての世代が問われる事は元気で生きる事。元気があれば何でも出来ると猪木に言われる迄もないが、現実は元気が無ければ何にも出来ない。その元気の源を食生活と飽くなき探究心だと信じて止まない親父も、口先だけでなくせめてどんなに美味い物も袋を空にしてはいけない。
これは昨夜のお話。今朝の体調が心配されたがお腹は会長。いや社長かな。オイオイ。字が違う。分かってマ。仕事休みでも仕事に出掛ける時間には体内時計にチェックされる。仕事をすると言う事はそう言う事です。その為には決められた時間に決められた行動が出来る事は最低限度の条件だろう。
今、景気対策として多くの事を政府に求め、それが如何にも尤もらしく雇用対策の重要課題の様に言われても、その為にどれだけの税金が使われるかを理解していない。景気は回復基調とどんなに政府、行政、日銀の総裁が口にしても実態は違う事を気付かなければならない。そんな事は分かっている?どうかな?
今迄何度も問われた己の生き方。その集大成の時がいよいよ来る。長い間自問自答を繰り返した「何の為に」「何の支えの為に」その言葉の重みを1人で支えなければ押しつぶされる事は間違いない。
昔(と言ってもそんなに前の事でもないが)水泳の岩崎恭子さんが「今迄生きて来た中で一番の幸せ」と名言を口にされたがその事が問われる。スイスの絶景の中で淡々としていた様に生きたとしても、いばらの道は一歩一歩前進出来る体力と精神力に希望の灯が道標に成るに違いない。
お休みの日のお昼は大体このお弁当です。最近はご飯大盛り。500円+70円。でも昨日ミカン2個上げたので20円負けてくれる。どうせなら500円と思っていると何時もは美味いご飯が今日は芯が少し残る。オカンならぶつぶつ言いながら口にしているのだろう。この罰当たり。自分でおいしいご飯を炊いてニンマリするのはもう無いのだろうか?(5食セットのうるち米)をレンジでチンする様ではね。
しかし、このレンジでチンする富山県産コシヒカリ。侮るな。北アルプスの天然水で炊き上げパックされている味はごまかしが無い。それ迄は魚沼産コシヒカリ佐藤のご飯だったがその半分の値段で味は負けない。勝てはしないけどね。
さあこれから山登りだけれど天気が今イチで気が進まない。お間抜けなテレビではなくコマーシャルの無いFM放送を聞いていると切ない桜の歌が聞こえる。長い間、本当に長い間ご苦労様でした。リンゴと桜が一緒に咲いて岩木の山を仰ぎ見る春は来るのだろうか?無理だな。(がっくし)でも気持ちだけは今年の春は違う予感です。
市役所前の通りに面した公園の紅梅。曇り空から雨がぽつぽつと落ちて肌寒い天気の中に凛とつぼみを広げている。朝日の明るい日差しは無いが親父の春を祝福している。思い上がり?そうかも知れないが見上げる人は殆ど居ない。
花壇の花は完全に春モード。しかし今日の寒さは心持ち肌寒い。
梅は咲いたが桜はまだかいな?昨年も撮った写真。少しピンボケはご愛嬌。よく見て下さい。桜です。桜。流石に寒さに震えている。大丈夫。その分長く咲いていられるから。(親父さん、桜はぱっと咲いてぱっと散る。それが春の美しさです。)
折り返し点の城跡公園は本日休園。しかし、来たのが5時を過ぎていたので今月末迄は閉門の時間。閉じられていた門の上に手を置いて一枚。それでも不思議な物です。又来て下さいと首を傾げて大手門が手を振っている。
天気が悪く家を出たのも遅くて現在地の先の体育館迄で引き返す。それでも靴の踵から着地しながら歩いていると、心が弾んで来る。体育祭、消防の隊列行進を思い出す。1年で首に成ったと笑われても入団式で宣誓をしたのは親父でした。
田舎暮らしは地域と仕事、生活の両立が本当に大変です。地方の活性化が叫ばれて久しいが活性化するとは何かが分かっていない。よそ者は所詮よそ者です。そのくせ自立が出来ず過疎の波は容赦なく襲いかかっている。間違いなく財政の破綻は待った無しです。都市部の市町村もこれからは合併連合を繰り返さないと生き残れない。
城跡公園から山に向かうと山麓に体育館がある。その手前の谷に掛かる橋の上から見た夕暮れの時。西に沈む太陽を追い掛けて行っても黄金を手にする事は出来ない。黄泉(よみ)の国もあの世、冥土と言われても「まだ来るな」と叫んでいる。
これは枯れ木では有りません。今年も間違いなく幹の先に伸びた若枝は枝葉の先に白いピンクの花を広げるに違いない。この空洞の部分は親父が大阪に来て間もなく、枯れ果てた幹の樹根を取り払って出来たもの。あれから干支が一周する。久し振りの再会は親父以上にくたびれていた。後どれ位の命かな?ガンバレ。
どうだおぬし 生きる事は不撓不屈(ふとうふくつ)どんな困難あったとしても負けない気持ち。幹もその先も枯れ果てても生命力が枯れ果てなければこれだけの事が出来る。生きる事に疲れた時、どれだけこの幹をなで回した事か。
老木は何も語らず何も見せては呉れなかったが、何故か心が癒されていた。しかし、寄る年並には老木も勝てず薄緑の苔が出ていた。今年の桜が見納めに成るやも知れぬ。今年は何を差し置いても満開の写真を残さなければ成らない。
久し振りの再会は親父に新たな決意を与えている。この老木が教えて呉れた事は「新たなる力」。どんなに苦難の時に押しつぶされていた時も、親父に勇気を与えてくれた大木が今、その時を終えようとしている。ありがとう。そして忘れない。
この桜木は昨年も紹介したけれど、今年は一段と立派な苔ならぬ草を纏って(まとって)いる。桜のエビ反りならぬ緑反り。昨年は上の老木より元気が無かったが今年は様変わりをしている。この生命力は何を暗示しているのだろう?
帰り道。何時もはこの下りの階段を腰を落としながら降りているが、今日はそれがない。安全の為に右の手すりから手を離さなかったが、足の疲れは無い。この差は何なのだろうか?ピンボケの画像が笑いながらタマタマと手を振っている。
階段の上は公園。その側面に水仙が植えられている。これは昨年には無かった事。来年はもっと多くの水仙が楽しめるのだろうか?少し接近が足りずに寂しい景色になっている。
最後は老舗の酒蔵。この前を抜けると街中に戻って来る。
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