5月の風は砂嵐 それとも爽やかな微風?それは期待していない
ここは今日綺麗にした藤棚の公園 顕彰碑の前の広場 ここがイノシシにボコボコにされても池田市民は見向きもしない。こんな綺麗で汚い所がある事も知らない。流石にここを綺麗にしても市民からの苦情はないと思いきや一度だけおまわりが来たことがある。
ここを綺麗にしていた初めの頃、自転車の置き方で文句を言われたオバハンが通報していた。お巡りさんとの関わりもあれが最初。あれから他の場所で通報されているが市役所前の公園が一番多い。「余計な事をしないで下さい」そこまで言われる親父の存在は歓迎されてはいないことを思い知らされる。しかしここを見ろ。そんな事はどうでも良い。そう思われている。思いもしない。関係ない。そう思われてもいない。
これが綺麗になる途中。これでも綺麗になっているが汚い。ここは神聖な場所。そんな事も知らない。近くの年寄りも歩いてくる事はない。それだけ年寄りは歩けなくなっている。年寄りだけではない。これから暑くなれば尚更の事。汗を拭きながらニコニコして歩いてくる人は一人もいない。これからの高齢化社会。どんな生き方ができるのか?そんな事は誰も教えてくれない。その伝道師もいない。
そんな時代が今、この国を襲っている。多くの人は知らないがヨーロッパには寝たきりの老人は日本程ではないと言われている。その違いは長生きの考え方の違い?そんな事は誰も知らない。口から飯が食えなくても直接栄養源を胃に流し込む。認知の機能がなくなっても生命は維持されその医療費の負担に現役世代も耐えきれなくなる。それでもそんな医療は変えられない。法律でも許されない。
しかしそんな生き方を誰が選択したのだろう?そんな事も問われない。これからはそんな医療も問い直される。その問いかけに応えられる生き方はしているのだろうか?今問われている事。それは歩く力。考える力。普通に生きる術。そんな事は哲学の先生でも答えられない。そうかな?
ここを綺麗に最初にした時、この長石は完全に埋まっていた。その石を日の目に晒して生き方を問う。そんな生き方は変人でないと出来ない。ここは明治の初めに建てられたたにで顕彰碑がオイラの生まれる10年前にここに移されている。戦争に負けて国家第一の思想は蔑ろにされても国をを守るとは何かそんな事は何も変わらない。人の事はどうでも良い。そんな生き方もいつまでもは続かない事を知らない。
この緑は草ではない。水仙の葉っぱ。これも明日切り落としてここは見事な空き地に変わる。誰も綺麗にしていない。ここがどんなに綺麗になっても見向きもされない。そんな罰当たりは間違いなく歩けなくなる。久しぶりにこの周りも綺麗になるので階段の上り下りも出来る。
ここは綺麗にしていた狭い運動広場。でも年寄りには上等な広場だった。そこもイノシシにボコボコにされているがここも明日綺麗になる。どんなに綺麗になってもこの価値は分からない。ここで筋トレのストレッチをやればただで体が引き締まる。そんな事もまだ誰も知らない。
このカエデの大木も根っこがアリの巣になり痛々しい姿を晒しているが昨年の冬はこれで枯れる事もなかった。ここに明日瓦礫と土を入れる。今年の夏は涼しい環境で夏が越せ秋には見事な紅葉を見せてくれる。その喜びの時は誰も知らない。
ここは今日土を掻き落とした所、明日この手前を掘ればそこに多くのゴミが流し込める。「余計な事をするな」そんな事は誰にも言わせない。そんな仕事ができるかな。今日市役所で素晴らしい青年と巡り合う。多くの事をお願いしたがその結果はいずれ分かる。
役所の仕事で大事な事はその政策の評価。多くの問題が分散化され外部にも丸投げされてもその評価は何もない。彼は若いから多くのことが期待できる。ただ残念の事にその評価は誰も知らない。期待を裏切られてもその仕事の成果は何も変わらない。そんなめぐり合いになるのかな?
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