失われた30年 その半分は取り返せ?無理だな 世の中は何も変わらない?そうかな?その事は来週思い知る?そんな予言はお前さんには出来ない?そうかな
ここは淀川左岸線「海老江工区」?の迂回案内図。この案内図の表示は何も役に立たなかった。こんな看板は見なくても歩ける。
工事現場に近寄る事は出来なかった。当然写真も撮れない。それはこの工事の規模が証明していた。この地域にも人は住んでいるがそのエリアと工事現場は完全に「遮断」されていた。それが分かっただけで充分でした。この先右の工事現場のその先を歩く。国道2号線の淀川大橋は遠くなかった。
ここから引き返しても出発地点は1キロ足らずだったがこの橋を渡りその先を歩く。橋の上は風が強かったが顔を背けるほどではなかった。
この橋は国道2号線淀川大橋。交通量が多い様に見えるのはこの先車線規制がされているから。その意味も良く分からなかった。
この端の堤防の上流の右前方に懐かしい工場跡地が見える。今は全国紙の印刷しかしていないが親父はその印刷工場に就職して皮肉にも4年間現場は何も知らないで営業の仕事をした。それも華々しい印刷の営業ではなくビジネスフォームの帳票担当。今はその仕事は無い。
その当時はコンピューターは大型で机の大きさよりも大きく個人が卓上で叩けるパソコンは無かった。大型計算機(コンピュータはアメリカ製)その計算結果は連続用紙。両端にその用紙を動かす穴が開いていた。そんな印札用紙は当時は日本の技術では造れなかった。
そのビジネス用紙の大量生産は日本の印刷大手でないと造れなかった、(例外はあったがその会社も今はどうなったかは知らない)?
ネットで調べてみると規模は比べ物に為らないがどっこい生き残っていた。ビジネスフォームという言葉は当時から大阪の殆どが知らなかったがそれは今でも変わらない。当時も今もその必要性は何も変わっていない。仕事の中身が大きく変化をしている。そんな事は何も知らない。
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