年の瀬の京都 目的のお寺さんは大工事をおこなっていた。それでも住職に会えて喜んでいました。
1年ぶりの対面。一遍上人。そう言われても多くの現在人は知らない。その教えと生き方は壮絶だったに違いない。「全てを捨てて全てを仏の教えの札を配る」そして全ては無かった事にする。そんな生き方は現在では出来ない。その事をこの写真は教えている。木道は墨。撮影は禁止の中でカメラを構えて怒られていた。それでもこれからの生き方は変わらない。生きるとはそういう事に違いない。(勝手に悟るな)
このお寺さんを知る人は関西でも多くは無い。今はお寺さんの勢いは小さいが平安の時代からの伝教大師(最澄)が建てた庵(いおり)である。
ここは隣の有名な親鸞の「祖廟」(墓)があり京都を代表する墓参りのニュースで知られている。(大阪人は知らない)
ここが本堂。生憎の天気で雨は降っていなかったが曇空で写真は綺麗で無い。今年は春のお参りをしていないが新年は春に綺麗な写真をとりにくる。この裏山は京都の東山。京都盆地が良く見える。そのすばらしい景色は関西人でも多くは知らない。拝観料が八百円になっていた。
高い。でもその理由も分かる。大変な工事が始まっていた、「納経所」と社務所、名園の工事。その財源の確保は簡単では無い。
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