
ここは地域のごみ出し場。近くのマンションに外国人の家族が多く暮らしているがこれだけ汚れていても誰も綺麗にしない。
マンションの管理人、持ち主は池田の市民だろう?地域の自治会は無い?地域の住民もこの程度のまちづくりしかできない。市役所の誰もこの事実は知らない。幹部達は?勿論この程度の事も改善出来ない。この道の反対側には行政の建て物がある。何で教えてやれないのだろう?

この植え込みの剪定は綺麗になる。この看板も見えなくなっていたが見事に綺麗になる。ただこの先の橋の上に自転車が停められる事は何も改善されない。「バイク、自転車は押して通行してください」そんな事は誰も守らない。公園管理センター?そんな部署は無い。

この橋の上に自転車を停めさせない。その指導、監督は誰もやらない。ただ「お願い」の表示はされている。体育館の責任者の管理責任が問われてもそんな考えは池田市には無い。左に立派なプールもある。多い時にはこのバイク、自転車は10台を超える、それでも誰も何も困らない。バカ達はそんな生き方をしている。

この看板に表示されていないがこの左にミニ公園がある。藤棚の公園だが正式名称として認知されていない?当然公園の管理も同じ。市役所の公園管理の担当は今年の4月から変わっているが彼の力を借りないといけない。この多くの施設の市民サービスが問われても行政にそんな仕事は求められていない?
これも全国何処でも同じ?一番下の看板はなんとか児童文化センター。この入口の草取りを何度もしても感謝の言葉もない。その程度の仕事をしている。この公園の整備も指定業者がいる。ミニ公園が綺麗になっても彼らの仕事の評価は行政でも出来ない。丸投げ?しかし4月から担当の監督者は期待している。

この歩道も何度もピカピカにしたがこの左の植栽の借り込みも出来ない指定業者。この上の広い五月山の全てを管理しているので手が回らない。そう言われてきた。この歩道はこれでも綺麗。そう思われている?この地域の住民はウオーキング、犬の散歩以外しか通らないから掃除はしない。
まちづくりと言われてもその程度。市長の大阪維新のオバちゃんにそんな問いかけは誰もしない。地域選出の議員さんは?顔も見た事が無い。ここも梅雨明けには綺麗になる。そのやり方は簡単。その術を学ぶ気持ちは彼らに無い。その訳は?見解の相違です。


「踏み土」は完成していないので荒らされる事は何も無かった。しかし近くのベンチの横の空き缶。速攻で捨てる。このおバカはここで人生を終えている人の思いを知らない。彼も又ここでビールを飲み終えて首を吊ったのだろうか?この空き缶を捨てた代償の重みを知る由もない。


この藤棚の横のポールに紐をかけベンチを踏み台にして斜め前の鉄骨にロープをかけ硬く縛れば首をかけベンチの板を蹴れば終わりです。
生きると言う事はそんな事をしないでどう生きる事を楽しむか?そんな事は簡単ではありません。だからこそ多くの人がグダグダ言いながら生きているのでしょう?それも違います。生きると言う事は哲学です。哲学とは愛であり知識です。愛知の人達はそんな事は何も知りませんがそれが生きると言う事でしょう。
生きる証?そんな物は何もありません。生きると言うことは悲しみの連続?それはタマタマです。親父が長い間問い掛けていた答えはそう言う事。どう生きるか?それが今も問われています。ええカッコを言うな。確かに。綺麗事はうんざりです。人は人に笑われながら成長をする。これは現役時代守谷氏に教わった言葉。これも嘘です。人は人に笑われない生き方をする。お袋の言葉は今でも生きています。

今日の穴を掘り多くの大きな石を中に埋めました。この石は未来永劫掘り出される事はない?そんな事はありません。この場所が別の施設に替われば簡単に突き崩される事でしょう。しかしこの「踏み土」は間違い無く10年は親しまれるに違いありません。そんな道が完成するのは来週の土曜日に違いありません。その時は親父の足裏が素足で歩けた時「歓喜の歌」を歌います。(歓喜の歌は酒のみだけの歌ではありません)
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