大阪に中津の駅 その駅のホームは日本一狭い そんな事は誰も知らない?知らないと言う事はそう言う事 偉そうに語る事は何もない
この日本一狭いホーム?但しギネスに登録されていない。この駅は阪急宝塚線梅田ターミナルから一つ目の駅。各停しか停まらない。この駅で18から26迄お世話になっている。大阪に大分から出てきて長年お世話になっている。26の時島本町に新工場が完成してその後は利用することはかのうでしょうかことはなくなったがあれから半世紀経ってもこのホームは何も変わっていない。と言いたいがこの点字ブロックとちゅうおうの太いパイプは安全対策。今は乗り降りする人が少ないが当時はこのホームの端を歩いていた。それでも事故は全くなかった。
高架下のうすぎたない食堂。(ごめんなさい)今でも看板は降ろしていない。ここで夜勤の仕事前に先輩と飯を食っていた。一月半に五日程度。それは親父と先輩の勤務のローテーションが違っていたから。親父は二交代。先輩は3交代だった。そう言われても分からない?親父 職場は昼勤と夜勤の週交代。先輩は昼と夕方と夜勤の週交代。当然2交代のの方がしんどかったが無心で働いていた。ウソ。阿呆らしくてずる休みも少なくなかった。そんな働き方をしていると当全親方に怒られた。会社をやめろ。何度言われたことだろう。その度にふてくされていた。
そんな働き方をしていたら当然信頼はされない。首にならなかったのは代わりがいなかっただけ。そんな働き方が変わったのは先輩の仲間が昇格をしてそれまでの呼び方が変わってからだった。それまでも00さんが00になればいい気はしなかった。立場が変わると言うことはそう言う事。それからはそんな働き方を一変させる。管理職になったのは当然親父が先だった。ただ当時の上級職試験は古い落とす事が目的ではなかった。当時の社長から面接で言われた言葉は忘れていない。「大阪に帰ったら今の気持ちを忘れないで頑張って下さい」
その前の年に結婚していたのでバリバリの青年将校だった。しかし上司は課長代理。親父は課課長代理だった。それでもピカピカの1年生。浜松に工場が出来た時立場が変わる。上司が転勤を辞退したので親父に指名の矢が刺さる。待遇は課長職。持ち家の便宜を図る。一緒に転勤の課長はバリバリの課長。大先輩。断る理由は何も無かった。
しかし世の中はそんなに甘く無かった。転勤先の工場は現地採用の全て新人。彼らの教育から仕事は始まる。一日も早く彼らを戦力して仕事が出来るかそれが全てだった。今考えて見ると青年将校が鬼にならないと仕事をこなす事が出来なかった。先輩工場の支援は完全に絶たれればやる事は決まっていた。仕事を完璧にこなせは喜びをむきだしにして喜び、ミスをすれば怒りを露わにして怒鳴りつけていた。
ようやく仕事が軌道に乗ると2年足らずで兄弟工場が建設される。その役目は大阪組。東京からは製造部長とそのスタッフ。ここも先輩工場の支援はなく現地採用と浜松で育てたメンバー。新規高卒者を戦力するまでは地獄だった。そのメンバーが今は工場の幹部。大阪からの先輩は役目が終わると東京の物流センターのセンター長。しかしその先輩は親父の様に太々しくは生きる事なく鬼籍に入っている。
親父はどっこい生きている。苦労に手にした代償は嘆きの言葉。どんなに重ねても報われる事はなかった。それが教訓。オッカアが亡くなって3年間彷徨い二人で手にしたり立派な家を売り払って大阪に戻り色んな仕事をしました。最低だった仕事は警備員の仕事。一番激怒した言葉は「警備員のくせに」一番嬉しかったの職場の前の家の娘と仲良しになれた事。当時小学生と保育園の子供は立派に大きくなっている。
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