« 明日は久々の出会い 工場と工場長 どんな再開ができるのだろう 生きていればこそのことだろう | トップページ | ジジイの健康管理 糖尿病対策  »

2022年11月 9日 (水)

30年前後の時間が流れていた工場見学 ビジネスフームの歴史は今でも多くの人は知らないがすばらしい発展を遂げていた。パイオニアの宮澤さんも喜んでいるに違いない。

79659b701350482ab11b3fda031f5ee0

Da834e1b007c4d368999c740720f227a 2205a8f1d41f4a73b2a12b7f738e6714 Fe433ec00a9f4af0a4fb3234e2eeac81 B3f9f7c12f7d4365bf206b95a38dc314 48a38c64e80148a581cb0f6c62c02a31

駅から工場に向かう道は(歩道)は拡張されてされて綺麗になっていた。多くの地域で車道との間に植樹帯がもう蹴られるがその維持管理はほったど出来ない。できなけければ最初から作らなくてこんなシンプルな歩道にすれば良いがそれをやらない。何故だろう?

行政の長達はそれでは自己満足が出来ない?地域の人達も感違いしている。植樹帯をもうければその維持管理をする地域のリーダーが求められる。その事が全国理解出来る地域が少ない。そんな地域になっていない事が嬉しかった。この歩道の清掃は誰がやっているのだろうか?

1b84ff3c228a402cb948fef4f26f39ba 8c7dc95d45c847ac8c6e747c5e50bb3b E97a0a4a358a4f53ada9117f9dd2c0af

立派なJR島本駅が出来ていた。この駅から工場は近いが工場が出来た時(昭和46年)にはこの駅は無かった。この駅が出来て一度だけこの駅を利用したと思っていたが感違いだった。帰りにこの駅を利用してその事に気付く。この駅の裏手は農地だったがその土地が住宅地に造成されていた。数年後にはこの地域は一大住宅地に変わるのだろう?生きているかな?間違いない。そうで無いととても後10年は生きられない。

F87b85926adf4c2da25e474d9da33552

Efff339f15f54e1a8fcae182a3442f14 2bbab52dab8c4b9ba8693c8713b055e8

なつかしい道。半世紀前はこんなに綺麗な道では無かった。(でも舗装はされていた)

00fd14a644834710bd1c1f0c07fc1e35 84ad9c6adc4c4226ab6e18bd6146c6f7 1afc3e570429435c8326f72bd798d4dd

JR東海銅本線(今は愛称で京都線と呼ばれている)この踏み切りの幅は半世紀前と余り変わっていなかった。

789df21d2f50429da3f5515b7962cece 3744df2960b44c54885ef5459efbe0ad 72afceab8a0c48e083c1f33419bf2d90 628c9471c95f48f3879f49c9f6749fee

ここは全て農地だった。そこがこうして造成されて数年後には一大住宅地に変わる。その工事が進められていた。

Ea331909187943d6aab0da3def2db35f 614a1620859d42f1a81ca13340c24d9d

駅に続く道。正面が駅です。

Ff74e2b040e6427c95d26f3ed2b334f7 4c1dc7eda269429596254de0a8e8dfa2 10929831356944b3bf60221a1245350a

この工場が完成した時、地域の人達から何の工場か理解されなかったが綺麗な工場で悪くは言われなかった。昭和46年の事だから今から半世紀以上も前の話。親父も若かった。26の歳。それでもまだ会社一筋の人間ではなくフラフラしていた。ただその後に変化が起きる。

正規の採用では無かった先輩が監督者になりそれまでのさん呼ばわりが呼び捨てになった時。「これじゃあかん」変わったのはそんなプライドが残っていたからだろう。働き方が変わる。当時はまだそんな勢いが自分にも会社にもあったのだろう。

当然上級職試験の資格は先に手にする。試験は会社にとっても最初(1回目)だった。見事に不合格。同期で合格したのは一人だった。その時の試験官の重役から言われた言葉は今でも覚えている。「君は一般常識のテスト結果は高かったが専門知識の結果が低すぎた。話にならん。」

ただ当時は上級職のレベルも叩き揚げの人が中心だったので2回目で合格。その時の面接で言われた会長の言葉も忘れていない。東京の主婦の友ビルに間借りしていた本社の面接会場で優しく言われた言葉は新入社員の時にかけられた言葉と何も変わっていなかった。「大阪の地で頑張って下さい」宮沢会長が亡くなって久しいが立派になった工場を見ながら嬉しく思っていた。そして感謝していた。

ビジネスフームの仕事は今でも知らない人が多いが宮沢さんが切り開いたこの国のこの業界は見事に開花していた。そしてこれからさらに大きく社会に貢献するに違いない。三益一如。この経営信条は毎朝唱和しながら疑門に思う事もあったが社会と会社、そして個人の利益が一致する。そんな社会はまだ実現していないがそのパイオニアの偉業は今確実に花開いていた。天国で優しく身守ってください。

6ce4831144464baab0bcbaac6d9a759e 8103c07c6b3e490886641179a9aa62bb 9e57774e0418451797b9f59d7998f3e2 90db0137bbfe4c40bb7ece51b7a23ac4 Eee1f9b3204f4d0fb9d4a0cbcac23856 Fa9886c530a04ba0a6e629ca3a7c98de 2f34f7fe7d004a42875b55c7a2066bad

|

« 明日は久々の出会い 工場と工場長 どんな再開ができるのだろう 生きていればこそのことだろう | トップページ | ジジイの健康管理 糖尿病対策  »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明日は久々の出会い 工場と工場長 どんな再開ができるのだろう 生きていればこそのことだろう | トップページ | ジジイの健康管理 糖尿病対策  »