30年前後の時間が流れていた工場見学 ビジネスフームの歴史は今でも多くの人は知らないがすばらしい発展を遂げていた。パイオニアの宮澤さんも喜んでいるに違いない。
駅から工場に向かう道は(歩道)は拡張されてされて綺麗になっていた。多くの地域で車道との間に植樹帯がもう蹴られるがその維持管理はほったど出来ない。できなけければ最初から作らなくてこんなシンプルな歩道にすれば良いがそれをやらない。何故だろう?
行政の長達はそれでは自己満足が出来ない?地域の人達も感違いしている。植樹帯をもうければその維持管理をする地域のリーダーが求められる。その事が全国理解出来る地域が少ない。そんな地域になっていない事が嬉しかった。この歩道の清掃は誰がやっているのだろうか?
立派なJR島本駅が出来ていた。この駅から工場は近いが工場が出来た時(昭和46年)にはこの駅は無かった。この駅が出来て一度だけこの駅を利用したと思っていたが感違いだった。帰りにこの駅を利用してその事に気付く。この駅の裏手は農地だったがその土地が住宅地に造成されていた。数年後にはこの地域は一大住宅地に変わるのだろう?生きているかな?間違いない。そうで無いととても後10年は生きられない。
なつかしい道。半世紀前はこんなに綺麗な道では無かった。(でも舗装はされていた)
JR東海銅本線(今は愛称で京都線と呼ばれている)この踏み切りの幅は半世紀前と余り変わっていなかった。
ここは全て農地だった。そこがこうして造成されて数年後には一大住宅地に変わる。その工事が進められていた。
駅に続く道。正面が駅です。
この工場が完成した時、地域の人達から何の工場か理解されなかったが綺麗な工場で悪くは言われなかった。昭和46年の事だから今から半世紀以上も前の話。親父も若かった。26の歳。それでもまだ会社一筋の人間ではなくフラフラしていた。ただその後に変化が起きる。
正規の採用では無かった先輩が監督者になりそれまでのさん呼ばわりが呼び捨てになった時。「これじゃあかん」変わったのはそんなプライドが残っていたからだろう。働き方が変わる。当時はまだそんな勢いが自分にも会社にもあったのだろう。
当然上級職試験の資格は先に手にする。試験は会社にとっても最初(1回目)だった。見事に不合格。同期で合格したのは一人だった。その時の試験官の重役から言われた言葉は今でも覚えている。「君は一般常識のテスト結果は高かったが専門知識の結果が低すぎた。話にならん。」
ただ当時は上級職のレベルも叩き揚げの人が中心だったので2回目で合格。その時の面接で言われた会長の言葉も忘れていない。東京の主婦の友ビルに間借りしていた本社の面接会場で優しく言われた言葉は新入社員の時にかけられた言葉と何も変わっていなかった。「大阪の地で頑張って下さい」宮沢会長が亡くなって久しいが立派になった工場を見ながら嬉しく思っていた。そして感謝していた。
ビジネスフームの仕事は今でも知らない人が多いが宮沢さんが切り開いたこの国のこの業界は見事に開花していた。そしてこれからさらに大きく社会に貢献するに違いない。三益一如。この経営信条は毎朝唱和しながら疑門に思う事もあったが社会と会社、そして個人の利益が一致する。そんな社会はまだ実現していないがそのパイオニアの偉業は今確実に花開いていた。天国で優しく身守ってください。
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