今日は10㌔歩く しかし大阪どころか十三(じゅうそう)にも到着せず
新年初歩き2日目?猫ちゃんに笑われている?そうでは無くて泣かれている?大丈夫。小銭入れを落としたぐらいでへこたれる親父では無い。ただ小銭入れに部屋の合鍵を入れていたのでこれが痛い。合鍵を造るには簡単でない。それでお主を100均で買い求める。今度は落とすなよ。
大阪は今日もいい天気。今年はこんな天気が続く?訳が無い。新年早々鍵を落とせば世話は無い。しかし物は考え様。これ位の事で済んだのは吉兆。今日は服部天神で足のお守りを手に出来なかったが、この猫ちゃんが小銭だけでなく親父が守ってくれるに違いない。
この道は何度か歩いているが大阪梅田の目的地のビルが見えたのは始めて。10㌔先の風景。10㌔と言えば電車で10分足らず?歩くと親父の足では3時間掛かる。昔の人は2時間半。アンタは何時間で歩けるかな?そんな人は殆ど居ない。東南海地震で帰宅困難者が出るとこれ位は歩けないといけない。
隣町の市役所はこの商店街の奥の通りの先にある。この商店街の活性化の話を地元の商店街の重鎮に聞いた事がある。その当時より活気が失せている。それでもこの商店街はシャッター通りにはならない?そんな事は無いだろう?今年はもっと寂れる。その対策が無い限り?
そんな事もどうでも良いのだろう?親父はこの商店街の近くにある神社の若い神主に怒鳴られた事がある。立ち入り禁止の中で写真を撮っていた時だった。あれからこの商店街と神社を馬鹿にしている。原田神社。この神社の伝統は古い。しかしこの神社にお参りをする人はどれだけ要るのだろう?
地域の人達だけ?それともその力を信じている人達だけ?神社に初詣に行っていた時を思い出しながら苦笑していた。神のお守りをする神主がこの程度のガキではドンコン(どうにもこうにも)ならんだろう?それともそんな罰当たりは許されない。
神社が廃れるのは当然だろう?神主の学校ではその程度の事も教えられない。お寺さんも同じか?人に何かを教えると言う事はそう言う事だろう?違うのかい。今でも思い出すと怒りがこみ上げて来る。今年は仏心ではなく伝道師としての心の修業が待っている。
それでもそんなに難しい話ではない。この椿の花の様に自然のままに自然に生きる。どんなに尤もらしい事を言っても人の心は打たない。人の心を打つ為には親父は今でも信じて疑わない言葉がある。「精神的な支柱」。英語で言えばバックバーン。
椿咲く春なのに貴方は帰らない?そんな歌謡曲に涙した時も昔々の事。しかしよく考えてみればそんなに古い話では無い。高々20数年前の話。それから本当に情け無い生き方をしている。それは一体何の為だったのだろう?その事は今年証明される?それともまだまだ先の事?それもこれからの生き方が決めるに違いない。
この先でこの直線道路が民有地で遮られる。直進出来ない。この阪急高架の下を左に出て狭い歩道を歩かされる。その歩道も無くなる。車道も片側1車線の交互通行。歩道はその車線の左側。何たる区画整理。行政は何をしてまんねん。そんな事もどうでも良い。歩く人は殆ど居ない。
この道を始めて歩いた時にはあきれかえっていた。ガタガタ言う事は無い。右に歩道が無くても左に歩道は整備されている?そんな問題ではない事を行政は問題にもしない。この近くにお寺さんがある。一度もお参りをしていないがそんな事も関係ないのだろう。
この言葉の意味を考えていた。「施福無量」福を施す事は計り知れない?辞書で引いていないので言葉の意味は親父の勝手な理解。福を施すのではなくその無量を知れ?確かにそうかもしれない。人の為に生きる?人の為に何かを為す?何と思い上がった考えだろう?そんな生き方をして来た事を恥ずかしく思う。
毘沙門天。
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