秋の日のヴィオロンのためいき ヴィオロンって何や?
昨日の箕面 聖天宮西江寺の御神木。近くで住職が庭木の刈り込みをしていたので樹齢を聞いて見る。分らないとつれない返事。(知らんのかい)それでも樹齢は100年以内。色々教えてもらうと住職もこの寺を任されて15年。この寺も由緒正しいが後継者は親子代々では無い。そう聞かされるとこの寺の奥の深さが感じられていた。
紅葉はまだ感動の欠片も無かったがこれが後一月もすると息をのむ錦絵になる。信じられない。だろうな。しかも今年は夏の台風で大木が一本なぎ倒されている。それでも最盛期の紅葉は期待を裏切らない。ここにも神木がある。しかしこの神木は役行者と歓喜天が対談したと言われる石をお守りしている。
この道はこの上にある展望台に続く道。その先に車道が走っている。その道の歴史も古いが歩道は無い。歩道は無いが山の中を歩く道と車道とは別の立派な林道が途中からある。しかしこの道も今は殆ど手入れがされていないので道は荒れ果てている。ただ秋の紅葉シーズンには車が一方通行で通行するのでこれからの季節はその道も安心して歩けない?
この道は滝道に下りる道。当然下から登って来る人もいるがこの先には展望台があるだけ。その展望台も大した事は無い。一度この道を大阪南から来たおばちゃん二人組を案内した事があるが、上の展望台でお役御免だった。その程度の人もいればその先の道を案内した若い女性も居る。親父はガイドでも何でも無いがこの道だけでなく、箕面の山は滝道を外れると奥は深い。
昨日の目的地はここ。(山瞑想場)この芭焦は密教禅。山と向き合い自分と問答をし心を鎮める所?そんな事は住職は教えてくれなかったがこの場所はそんな所。そう勝手に考えている。心を鎮める立派なコンクリートの台座があるが恐れ多くて座るのか木の台座。その木も腐れ掛けている。腐ったら座る所が無い。大丈夫。その時は入れ替えて呉れる。誰が?それは行者様に違いない。
これからサウナに行って来ます。今日は30日。月2回。市の半額補助がある。サウナから帰って来る。サウナも常連の客が減っている。サウナで汗を流すのは特別の開放感がある。それでも体の汚れは落とせなくなっている。これから体を変えるには山に籠らないといけない。そんな山も無くなっている。
弁当を食いながら手前の木のワッパに腰をかけ空を見上げていた。時々階段の下の道を通る人が居るがお互いに無視をしている。そのうちに立ち上がり予言者になる?それは無いだろう?若い頃、ロードショウの映画館で見た旧約聖書の予言。日本人は無宗教の人が多いと言われるが、それはこれからも変わらない?
そんな事は無いだろう?これからはその事が問われる。その事がまだ他人事の様に思われている?そんな事も無いだろう。人は誰でも心の拠り所(オアシス)を求めている。その事がまだ本当に知られていないだけだろう?空を見上げていると心の中が空(カラ)になって来る。
仏教の教えではそれが空(クウ)心の中がカラになると悟りの心が開ける?そんな事は無いだろう?仏教の本当の教えは自分の心に正直に生きる事。親父はそう信じている。心に正直に生きれば当然自我の想いが強くなる。その気持をどれだけコントロール出来るか?その事が問われて来たがこの年になってもその本当の姿は分らない。
空海(弘法大師)が教えた真言密教の世界が今、京都東寺の五重塔で立体曼荼羅(マンダラ)として公開されている。しかし多くの人は真言密教の世界は理解出来ない?何でだろう?それは単純明快。空海の教えは秘密のアッコちゃん?理屈で理解をしょうと思えば空海に笑われる。
理屈でなく体で覚えなはれ。そう言われるに違いない。そう考えれば真言密教の世界に足を踏み入れる事が出来る。今年の秋は大覚寺にも行かないといけない。京都嵯峨野の大覚寺。ここはこの罰当たりの生き方を少しは改めさせてくれるかも?無理だな。
今日(昨日)は西宮名塩ー武田尾のハイキングコースを歩くつもりでしたが、駅を降りたら考えが変わり、一番楽なコースで能書きを垂れる。一番は最低でした。それでも好青年と言葉を交わす事が出来たのは一番の喜び。旧武田尾廃線敷きのハイキングコースで土に埋められたレールのレプリカを写真に撮っていた。一緒に歩いて居た女性も優しい人でした。その話は又明日。
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