大阪城見物 大阪城は広い 大阪城は大きく変わる
大阪城森ノ宮の駅前からも入場する事が出来る。しかしここから大阪城を遠くに見ても歩いて到着する迄に軽く20分は掛かる。それだけの脚力が無い人は途中迄この車に乗れば良い。但しこの車は外周を廻るだけ。堀の中には歩いて行かないと入る事は出来ない。
現在地は左下。ここから右斜めに進み階段を上がる。この時点で現在人は殆どネを上げる?どうして?ご覧あれ。散策の道は気持ちが良いがお上品な靴ではしんどい。スニーカーか運動靴?ご用意あれ。
足元は御心配なく。きちんと整備されている。親父的には土の道が良いが一部アスファルト?足元が汚れる事も無い。ここは最近整備されているが以前は汚い空き地?だった。もう少しすると見事な紅葉が見れる?しかし樹が若い。この樹が親父がくたばる頃には立派になるのかもしれない?30年?無理だな。
この階段数えた事はないが真ん中の手すりを持たないで上がるには結構脚力自身が無いと無理。今日は左端を歩いたので手を添えていない。それだけ体調が良かったのだろうか?自慢する事は無い。この先目的地はまだ遠い。この階段を登り右に坂を下れば見事な梅園がある。
ようやく大阪城内に入る。しかしまだまだ遠い。この大阪城は三代目。二代目は徳川の時代に造られ初代は秀吉。だがその天下統一の建物は家康の策略で全て叩き潰される。その跡地に五メートルの土でかさ上げされた徳川の建物も多くは落雷で焼失。明治の戦いで殆ど失われている。
ここは徳川の時代に大阪城代が置かれ、大阪、西国、九州の政治、経済を統治した。しかし実際は江戸幕府直轄で庶民の暮らしは生かさず殺さず?であった。大阪与力は奉行所の補佐をしていた大塩平八郎の乱が有名。ただ現在では多くの若者がそんな歴史を知らない。
大阪城には外堀と中堀がある。良く外堀が埋められたと表現される事があるが家康は大阪冬の陣で講話の条件としてこの内堀も埋めさせる。そして半年後再び大阪城攻撃。いかに頑丈な秀吉の城と言えども成す術は無かった。
この城の秀吉の妾「淀殿」が間抜けだったかが分かる。関西人にはその歴史が今だに理解されていない。真田幸村?いかに彼が優れた策士であってもずる賢さの違いは問題ではなかった。どんなにドラマで脚色されても歴史を変える事は出来ない。その歴史を殆ど知らない。
現在の様に大型重機も無かった時代にどうしてこれだけの石をこれだけ見事に積み上げる事が出来たのか?それはこれだけの大きな石をこれだけ見事に重ねる石垣の技術が江戸時代初期にあったと言う事。そしてその素晴らしい技術は権力者の為だけに使われ、庶民の暮らしには何の役にも立たなかったと言う事だろう?
これは誇れる物では何も無い。その程度の事も理解出来る人は少ない。恥を晒すと言う事はそう言う事?偉そうに言う事は何も無い。現在人も400年後には同様の判断をされるのだろう?そんな事もどうでも良い?かもしれない。しかし残された課題は小さくない。その事を思い知らされていた。
デカイ石。どうしてここ迄引き上げる事が出来たのだろう?その解説を聞いていない。調べてみますか?そんな気は全く無いけれどこの石を見ているだけで退屈は強いない。どれだけ多くの人がどんな方法でこれだけの大きな石を船から引き上げたのだろう?その事を考えているだけでワクワクして来る。(アホか)
目的地到着。旧陸軍大阪司令部。元大阪博物館。太平洋戦争で大日本帝国陸海空軍はアメリカによって完全に叩きのめされる。無条件降伏。そんな歴史も知らない若者だけでなく評論家?ジジババも少なく無い。大阪はアメリカの爆撃機B29の絨毯(じゅうたん)爆撃機で廃墟と化す。
しかしその爆撃でもこの建物はびくともしなかった?それはアメリカの空襲が木造住宅の爆撃だった証明でもある。そんな事も大阪人は語り継ぐ事をしていない。その建物が耐震工事を住ませてリニューアルオープン。今度は高級レストランとしてオープン?リーズナブル?これで大阪観光の目玉が増える?食事のレベルは分からない。
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