今日は敬老の日 年寄りを敬う?そんな気配は何処にも無い?
木材としての価値を全く無くした杉の大木?何で価値が無い?そんな事は都会人には分からない。分からなければこの山の持ち主が自ら教えてやらなければいけないが、そんな気配は全く無い。木材の価値は枝打ち、間伐(木の間引き)、下草刈りをして木の廻りの地面に日光を当てなければならないが、木材の価値が下落して全国何処の美林も手入れが行き届かない。
都会人が全く知らない現実。その代償は杉花粉の被害として受け止めなければならない。親父の故郷大分県南部の九州一広い佐伯市も平成の大合併で多くの市町村が合併して出来た町。その代表的な集落は立派な山林を抱えている。その山の価値を殆ど知らない。
親父も知らない。地域振興が他人事の様に思われている。人生最後の仕事として旗を振らないといけない?無駄だね?そうだとしても悔いは無い。生きた証はその程度かい?そう言われている?見てろ。見てます。乞うご期待?していません。勝手にどうぞ。
台風の余波?野分けの強風で長く伸びた木々の重なり合う音が不気味に聞こえる。あちこちに枯れ木や枝が散乱しているが何とも愛しい。ぼんやりと見上げていると落ちて来る枝葉に直撃される?そんな事は無かった。小さい頃から慣れているからかも?
親父達の小さい頃は山は遊び場であり家の手伝いの薪(タキギ)拾いの仕事場?だった。一時、森林資源の活用は尤もらしく一部のお役人と学者先生達がそん活用方法を議論したが、全国的に木材、森林資源の活用は実現していない。当然、地域の惨憺たる過疎化は加速している。
短い杜を抜けると立派な新興住宅地が開かれている。この先にお友達がいるがこの立派な住宅地も間もなく高齢者の墓場となる?信じられない?しかもこの現象は多くの新興住宅地の共通の課題。その深刻な問題にも行政は為す術もない。?
行政に頼る事無く地域住民がその対策に真剣に取り組ま無ければならないがその対策は難しい。近くに介護施設があるがいずれも満室?介護施設の御世話にならないで年寄り夫婦で支え合う?ところが片方が自分の事が出来無くなると悲劇的な日常になる。その試練を乗り越えられる人は本当に少ない。その事を殆ど知らない。
近くの農業用水の溜め池。しかしそれも今はこれだけの水は要らない?この行政府の間抜けな取り組み?溜め池管理者?そんな部署は行政には無い。何時迄こんな既得権を許すのだろう?子供達も少なくなりこんな危険な溜め池で遊ぶオバカは少ない事を知りながらこんな看板を作る?
この山合いの田んぼの稲はまだ刈り取りの時期が先になっていたが、この先の楽しみにして来た稲は刈り取りを終えていた。今年も稲刈り機でおじいさんが稲を刈ったのだろうか?息子が見守りながらさり気なく手を貸して居たが今年はどうだったのだろう?
庭先に籾殻(もみがら)が積み上げられていた。稲の雑穀も終り今年も無事収穫を終えた静かな時が流れていた。親父の故郷は台風で深刻な被害が出ているが災害は忘れた頃に立って来る。他人事では無い。ただその事を思い知る人は本当に少ない。それでも政治家はとぼけた事が言える。それだけ有権者がアホだと言う事?暮らしが良くなる訳が無い。
桃栗3年柿8年。何事も身を結ぶ迄(成果が出る迄)それ相応の歳月が掛かる。それも時代遅れになる?今多くの事が問われているがその成果はすぐ出なければ見向きもされない。成果を出すには人並みでは駄目。人並みの数倍?数十倍の能力が問われる。
この栗も今では見向きもされない?そんな事は無いだろう?四国四万十の栗の味。その宣伝効果は地元のコピーライターの言葉で甦っている。地栗。(じくり)。梅原真さん。その人こそ地域起こしの伝道師に違いない。地域起こしの旗ふりは難しくは無い。親父如きがやらなくても出来る。問題はその情熱としつこさに違いない。?
(人生における苦しみはすべて如来のはげましである)曽我量深。初めて眼にした言葉。そして真宗大谷派の大学の教授の人生感をバカにしていた。コラ。浄土真宗の教祖は親鸞?親鸞の教えも一般人は殆ど知らない。それでも日本で一番多い信徒を抱えている。
その人達がこの国の貧しい人達の代表でなければならない理由は何も無い。?しかしその程度の事も大学では教えていない?多くの悩める人達が宗教に関心を持たない理由が良く分かる。人生の苦しみはすべて如来の励まし?そんな事が分かれば苦しむ事は無い。
その程度の事も分から無いのだろうか?親鸞はそんな無慈悲な事は教えていない?親鸞は比叡山の修行の中でどうしても理解出来なかった本当の生き方。それを求めて法然の教えをただひたすらに修行を重ねる。それでも最後迄阿弥陀如来の教えは分からなかったと言われている。
その親鸞が信じた唯一つの生き方は師匠「法然の教え」法然が言う事だから信じる。宗教とはそう言う者だろう?そうでなければこの国の人々の苦しみは語れない。その苦しみが如来の励まし?何たる言葉だろう?
日蓮が他の宗派を攻撃した意味が分かる。その事は現在でも創価学会員の絶対的な自信に違いない。それでは救われない。そうは思わないのだろう?そうそんな罰当たりは地獄に落ちるだけ。そう思われている。その考え方もいずれ天罰が下る?何時?それはアナタ言える訳が無い。
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