「暮れ行けば浅間も見えず、歌哀し(かなし)佐久の草笛 藤村
見事な夕陽が北摂の山並みに沈んでいる。桜の老木も今年の役目を果たし、一昨日の風雨の花びらを叩かれても尚、その勇姿を見せつけていた。今年も花見の季節が終り、青葉の季節が始まる。多くの人の思いも様々。
お間抜けなテレビ報道の所為で政治にも経済にも関心が無いと言う人が少なく無いが、自分達の生活が厳しくなってもそんな間抜けな事が言えると思っているののだろうか?そんな事を思い知らされていた。それでも明日は桜花賞?なんのこっちゃー?こんなこっちゃー?さっぱり分からん。?
公園の桜はまだまだ満開?流石にその満開の時は終りです。それでも花見をする人は居ない。又来年です。今年は今日の平安神宮前の疎水の桜を見る事が出来ませんでしたがその代わりの桜をみることができました。満足しています。
公園の椿の花も落花盛ん。花が落ちると実は何処に宿るのかな?それは梅雨時迄のお楽しみ。久し振りに島崎藤村の詩集「初恋」を眺めながら大好きな句を大きな声で口にしている。今時(いまどき)の子供達は国語の時間で「小諸なる古城のほとり」なんて教わるのかな。あの偉そうに「暗唱」させていたオバカな教師は今はくたばっている。(コラ)御心配なく。他人事でない。
「千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」藤村。 花見酒ではそんな心境にはならないだろう?一時の馬鹿騒ぎは一体何だったのか?思い知らされる事は無い?そんな事もあるまい。
季節に四季がある様に悲しい事、苦しい事も人生の必然。それが分かる人にそろそろ巡り会わないといけない。多くの情報が溢れて多くの人が尤もらしく多くの事を断定的に語るけれど、その本質は千差万別。そろそろその覚悟が必要に違いない。
「暖かき光はあれど 野に満つる香りも知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色はつかに青し 旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ」藤村
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草もしくによしなし 白銀の衾(ふすま)の岡辺 日に溶けて淡雪流る」藤村。この詩は解説が無いと難しい。遊子とは旅人の事。この句を作った藤村自身の事。
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず(まだ青々とせず)。若草も腰を降ろすには早い?白銀の衾の岡辺?☃が残って銀色に輝く布団の様な丘?情景が目に浮かぶ。小諸も春の景色が迫っているのだろうか?今日は夕方、猪名川を歩く。
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