
昨日の武田尾「桜の園」。ここは沢を登り詰め谷に降りている。この谷は思った以上に広い。入り口の看板に「☂が降ったら立ち入り禁止」の看板が嘘でない事を証明していた。この谷を見れないジジババが尤もらしい能書きをこいでいるがいずれ時間の問題。若者達も同じかもしれない。本当に私達は何も知らない。
その癖、自己のお粗末な知識と体験に振回されている。そんな事もどうでも良い。ウソをつけ。そうでは無い事をこれから思い知るに違いない。自分だけで生きている訳では無い。その事をこの後この杜で思い知らされる。生きる事とはそう言う事かも知れない?
一見、険しそうに見えるがここは道が整備されている。歩きながら足元を気にする事は全く無かった。この先で休憩所がある。そこでおにぎりを食いながら辺りの景色を眺めていたのが4時過ぎ。そのまま先日歩いた「桜道」をのんびり下れば快適な山歩きだった。ところが色気を出して山を登る。「滝道」を歩いたのが間違いだった。
道無き道を歩いている様だがここはまだ周回道。多くの人が歩いた道?昨日は人影は全く無かった。右下に建物が在るがそこではこの杜(桜の演習林)を管理した夫婦が一時住んでいた?ただそれは親父も生まれていなかった戦前の話。
水上勉の小説「櫻守」にその話が出て来る。総理大臣がアメリカで日米協調を高らかに宣言しているが、先の戦争でアメリカと戦い尊い命を国の為に失った若者達の怨念が満ち満ちていた。
戦争を知らない子供達と親父達は言われたが、本当に戦いの愚かさを知らなかったのは皮肉な事に、軍人と政治家、マスコミ、一般市民、日本国民だった。親父が許せないと思った小説の1部を紹介する。
「弥吉が学校で習った事は、国を守る為、天皇陛下の為、命を捨てよであった。日常生活でも軍隊生活でも同じで「教育勅語」がいつも頭の中にあった。不滅と信じた国が負け、統制の眼をかすめ闇米や野菜を食っている人が不思議な気がした。」
どんなに尤もらしい事を言っても戦いに負けると言う事はそう言う事。総理大臣はアメリカの議会でアメリカの軍人の勇気と愛国心に敬意を表しているが、戦死者にどんな言葉で哀悼の誠を捧げてもその償いは出来ない。
その程度の事も分からないのだろうか?もっとえげつない表現をすれば鬼畜米英と憎しみを重ねた国は今、本当に日本の国益を最優先に考えているのだろうか?そんな馬鹿げた認識しか出来ないのだろうか?
多くの日本人がどんなに認めたく無くても、孫達の時代は日中友好でなければこの国の繁栄は無い。その程度の事も分からないのだろう?政治の話は難しいと言われる。そうではりません。オバカなテレビのニュースでは聞けない話を自分で聞く耳と心があればそんなに難しい事ではありません?
ここから左に下れば周回コースは終わる。昨日の予定はそれで終りだった。ところが折角ここ迄来れば「滝を見よう」。この時pm4:00。「滝見の道」はその名前とは裏腹に厳しかった。道無き道を進む?道は在った。しかしその道は冒険者の道だった?ご覧あれ。
この道を覗き込んだ時、一瞬、躊躇(ちゅうちょ)する。それでも引き返す事は考えていなかった。この先、足元に気をつけながら体重を左の山側に預けながら、慎重に足を進める。右は谷。落ちたらアウト。身震いしながらそれでも心は落ち着いていた。それだけの「余裕」があったのだろうか?それは違う。自分の判断に迷いが無かっただけだろう?
少し岩山を登る。道を探すが何処にも無い。ここでも引き返す事は考えていなかった?滝はこの先にある。水上勉の小説ではその滝の近くに小屋があり開けた空き地が在る感じがしていたが、そんな感じは全く無かった。ここ迄当時の大阪の名士が来ていると親父が勝手に思い込んでいた。とてもこんな道は歩けない?
この先に看板が見える。道は間違えていないがこれが道?親父が田舎の育ちで無いとこんな道を1人では歩け無いに違いない。間違いなくアクシデント(予想外の出来事)で歩けなくなるか、谷に転がり落ちると助けは期待出来ない?
それ位の事は充分分かっていた。危ない道を歩くな?バカ言っちゃいけないよ。歳を取るという事はそんな生き方が求められている。オバカな人にはそれ位の事が分からないのだろう。今日はもっと厳しい山道を歩く予定?だったが流石にそれは止める?
何気ない道に見えるがこの道も少し整備しないと数年後には通れなくなる?入り口の看板で「難コース」「道に迷う」その表示が間違いでない事を実感する。しばらくは歩く事は無い?そんな事は無い気がする。昨日、歩けなかったこの山の一番外を歩くとそれは分からない?
「ウソだろう」ロープが無い。右は谷。左の岩肌に体を寄せながらカニ歩きをしていた。写真を見ると良く「こんな道を歩いたな」そう感じていた。親父は高所恐怖症だから下を見ると歩けない。高さが大した事は無いが足元は竦む。
滝が見える。水量が少なくて予想した圧倒される高さも無かった。箕面の滝と比べると迫力は違うが、その事は全く考えていなかった。ただ期待した笹部新太郎の研究室はここではなかった?その事はもう少し水上勉の小説を読まないと分からない。
ここは滝上。流石に道もここ迄?しかしマップを見なかったがこの先の沢を登り詰める道が頭の中には入力されていた。その道が分からない。ここで引き返す事を考えながらもう少し先に進む。ここは雨が降ると濁流が流れ落ちて歩く事は出来ない。
そろそろ引き返す事を考えた時、右の尾根を登る道を見つける。足元の岩盤にペンキの矢印があるがその表示がウソではなかった。しかしこの表示はガイドが居ないと分からない?山を歩く。谷を歩く。標識を見て歩く。全てが自己責任です。人にガタガタ言われる事は何も無い?ここから沢を登り詰める道は急だったが快適だった。

ここで道案内の看板を眼にする。一番右端迄来ている。ここから更に登るが地形的には戻る。途中迄は登りだが道を確認出来てほっとしていた。道は整備をされている。しかし登りは楽ではなかった。シャツ迄びっしょり汗をかく。その登りも長くは無かった。時間的には5時の手前だったが慌てる事は何も無かった。
ここは登っていない。脇道が整備されている。この歩いている道も昔からの道だろうか?だが道の左右の杜には桜の樹はない。桜は谷の反対側で育てられていたのだろう?この演習林では桜の苗木を接ぎ木しながら品種改良をし、全国の桜の愛好家に配られている。
営利ではなく奉仕?それも違う。そんな代金が問題ではなく山桜本来の美しさを求めた笹部新太郎とこの杜の管理人北弥吉の生き様だったのだろう?新太郎にはそれだけのお金があった。現代の富裕層は後世に何を残すのだろう?余計なお世話だと言われている。確かに。
つつじヶ丘到着。見晴らしが良い。右下に谷。正面に切畑と西谷に向かう道が見える。この見晴らしの丘が「つつじが丘」と呼ばれる事に何の思いも無かった。新太郎氏と弥吉の親父はこの丘でこの眺めをどう感じたのだろうか?そんな事も何も考えないで椅子に座り足を投げ出していた。少し休んで立ち上がる。「6時前に山を下りないと」そう思っていた。
次の展望所迄は山容が変わる。中山の従走路に似た道が続き松が多くなる。水上勉の小説でも笹部新太郎は松茸を知人にご馳走しているが、今でも入山禁止の網が張られていた。こんな処に来て迄そんな事をする輩がいるのだろうか?警察の警告が何とも不気味だった。
赤松台の広場に到着。ここも武庫川が見える。この道を左に進むとほぼ一周出来るがここでは安全策を取り谷に向かって下に降りる。これは正解だった。下りは急だったが道は整備されていた。次の機会にこの道を登る。
この登りは何度も休まないと無理に違いない。しかし下りは楽。ゆっくりと写真を撮りながら降りていた。この写真は自慢が出来る。良い写真が撮れるのはカメラの所為だと言われたがそれだけではない事を思い知れ。
この川は下流の宝塚ではよく見ていたがこの山間地域では全く見ていなかった。雨が降らないと本当に穏やかな川だがこれが雨が降ると一変する。年に一度。数年に1度の大雨でこの川はこの川幅一杯に牙を剥く。その為に対岸には道が無い。
手前も以前は福知山線が走っていたが、今は右手の山の中をトンネルで走り抜けている。廃線の跡地はハイカーが絶えないが土地の所有者JR西日本は、通行の安全を保障していない。そんな道をオバカが通り抜けている。何で通行を止めないのだろう?
これが本当の無視。あっしらには関わり合いが無い事でござんす?どんなに自己責任とシラを切っても通行止めにしていない社会的責任が問われる事をJRは知らない?それも違う?皆で通れば止められない?そんな事も無いだろう。行政も知らない振り?をしている。事故が起きたら即フェンスです。

ようやく周回コースに戻って来る。次の機会にこの坂を登る。そしてこの看板で見える左の道を歩く。この道も難コース。足場が悪いから注意して歩かないといけない。次の機会は何時?その時を期待している。この山を知るにはもっと通わなければいけない?
無事入り口に戻って来ました。無事に戻れた事を感謝しながら次に歩く難コースの看板を見ていた。距離は0、8キロで1キロ足らず。でも侮るな。山道の800メートルは平地の800メートルでは無い。この道は厳しいに違いない。落ちない様に次は降りて来ます?(この先、今日降りて来た整備されている道を登る。)お終い。
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