ああ満願寺、満願寺。お彼岸のお墓参りの板塔婆の文字書きをしていた。
これは昨日の中山寺。この綺麗な境内も夕暮れが迫っていた。親父のハマって居る山門の仁王様。来る度にこの逞しさに感動している。人の生き方は様々。敬老の日が近くなると長寿の話がニュースで尤もらしく取り上げられるが、年老いて親孝行が出来なかった母の事を考えるととても哀しくなる。そんな心の弱さに何時も気合いを入れられる。
こちらは今日の満願寺。山門前の風景をカメラに収めようとしていると車が視界に入る。車がバックをして視界から消えた事を確認してシャッターを切る。四国遍路道でも感じた車乗り付けの参拝。駐車場は奥にあるよと声を掛けると「何時もここに停めている」と反論される。おばちゃん二人組。
その事を境内本堂前の納経所で話をするとその場所に駐車可と言われる。それなら駐車場の看板を立てなはれ。気分が悪い。それだけでは無かった。お彼岸の墓参りの為の塔婆の文字書きの準備をしていた。塔婆と言われても分からないだろう?
お墓の横に立てる木札。辞書を引いてみると板塔婆。卒塔婆(そとうば)とも言われる。塔婆とはストゥーバの音訳。ストゥーバとは仏舎利を納めた墓の事。仏舎利についてはウィキペディアで検索すると知らない事が分かり易く説明されている。
その塔婆の文字書きが住職ではなく納経所で一部はスタンプ。戒名は手書きで行なわれている事が驚きだった。お経はまとめて住職があげると言われても「そんなもんかい?」と首を傾げていた。塔婆も木製では無く合板のぺらぺら。「これは分業」と当然の様に言われていたが、大きなお寺さんのお墓の供養はこんな物かと失望していた。
人の生き方もお寺のお参りの仕方も考え方も多様化している。それでも親父は田舎の小さいお寺さんんで良かった。遠くて毎年はお墓参りが出来無いけれど、大切な人を大切に出来る環境はこれからも変わらない。
田舎のお墓参りと都会のそれが大きく違っている事を知らなかった方がおかしいのだろう?そんな顔で鬼瓦に睨まれていた。暫くはお参りをする資格さえ無いのかも知れない。ハイキングコースは歩けるかな?
短い森を抜けると暫くは立派な住宅地を歩く。注意して歩けばコース案内の標識はあるが初めて歩いた時は結構分からない所が会った。1度歩けば分かり易い道。初めての時はお寺で案内のマップをもらうと良い。それでも住宅地の中は土地勘が求められる?
この角を曲がると親父さんの仕事場(ガレージ)は近い。今日は居た。他愛も無い話をしながらお互いの意思疎通を計る。この歳になると少し話をしただけで自分がどう思われているか?本当に良く分かる。このゆとりのある団地も世代交替は難しい。
親父世代の人が老いて行く。その次の世代が新しい生活環境を作る。それが本当の故郷創成だろう。その事が問われている。今日はここでバスに乗る。本当に素晴らしい田舎の風景はこの先にある。来週この先を歩かないといけない。森を抜けなければいけない。人気取りでない豊かな暮らし。その事を政治家に求めるのは無理だろう?
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