
高知駅前通り?正式には何と言うのかな?高知駅近くの宿(龍馬ホテル)からはりまや橋交差点土佐電鉄路面電車停留所を目指して歩いていました。この日は快晴で桂浜で蝉の鳴き声を聞く。全国的にも初夏を思わせる暑さで一気に陽に焼ける。しかし、空気はさわやかで日陰に入ると汗は冷めていた。朝一番の目的地31番札所は路面電車の停留所から意外に遠く小高い山の上に在った。遍路道は歩かないとその厳しさは分からない。その事を思い知らされる。
蛙の歌は聞こえて来なかったが山の麓の田んぼは田植えが済んでいた。この時は元気に歩いていたが山の登り口が分からず近くの叔父さんに聞く。丁寧に教えて呉れた。
高知市内から車で来ると何の事は無いが、この遍路道は結構厳しかった。
風邪は大した事無く熱も出ていないが龍角散では咳が止まらないので、掛り付けの内科医で薬を貰いに行く。時間が無いので続きは後で書きます。
途中で「咳を簡単に止める事はむつかしい」と何かで聞いた事を思い出し、医者に行く事をやめて洗濯をしながら明るい連休前の空気を吸い込む。惜しむらくは新緑の咽せる(むせる)様な香りがない。四国那賀の人が足を踏み入れた形跡の少ない山道で散策しないとその想いは叶わないのかもしれない。ここ竹林寺の登りでもその事を何も考えていなかった。その罰が当る。
山頂には思い掛けない風景が広がっていた。四国高知の植物学者牧野富太郎を顕彰して建てられた広大な植物園。公園。記念館。遍路道を上り詰めた所で偶然牧野富太郎50周年記念のイベントの準備が行われていた。その会場の紅白の幕の前を横切り建物の中に入り場違いな建物と思いながら竹林寺の場所を聞く。
「ずっと先です」との返事を聞きながらやっぱしと思いながら引き返す。この地域では竹林寺よりもこの植物園の方が幅を利かせているのだろう?竹林寺の案内図が全く無かった。それとも親父が勝手に思い込みをしていたのかもしれない。
事前学習をしていなかった。takeさんにいつも言われている説明書を読もうとしないオバカな親父が端的に現れていた。この博物館の入り口(親父の場合出口)で記念切手発売の並び方を説明される。
記念切手の収集家なら垂涎(すいぜん)の代物(しろもの)でもその趣味も無い親父には「猫に小判」だったのだろう。鰹節だったらメタボの親父でも飛びついてかも。その罰は意外な形で桂浜の先で思い知る。しかし、その事も全く気にせずに綺麗な植物に単純に眼を細めていた。
到着です。納経帳を持って来ていなかったので有名な庭を拝観す。次の札所の案内を横目で見ながら車15分の文字に騙されなかった。歩くと約2時間。もうその体力は残っていなかった。これはガイドブックで学習していたので迷う事無くタクシー。その運転手と仲良しに成り浦戸湾(高知湾とは言わない)を越えて桂浜迄乗せてもらう。運転手の兄さんも肺ガンで亡くなっていた。
庭園は行った事は無いが中国の影響が良く現れていた。平面な庭をイメージしていたが奥の崖迄も庭の景色に取り入れられていた。質素で京都の雅な庭園とは趣が全く違う。観れば見る程心の中に空海の風景が甦っていた。
32番札所禅師峰寺(ぜんじぶじ)近くの人は峰寺(みねじ)さんと親しみを込めて言われる。確かにぜんじぶじとは言い難い。この間の道は田園地帯。東南海沖地震では津波で甚大な被害が想定されている。しかし、対策は避難の道が遠過ぎる事だろう。ここから桂浜迄の道も歩くと大変だったに違いない。
運転手とはここでお別れ。桂浜で小一時間。絶景を楽しんでいた。意外にも波打ち際は立ち入り禁止。沖は太平洋。大波が落ち寄せる危険があるとか。そんな事は予想出来ない絶景が広がっていた。危険予知。その言葉の重みを簡単に「想定外」とは片付けられない事をこの国のリーダー達は気付いていない。事故は起きたらその責任が問われる。その対策も取れないで安全宣言は絶対にない。それがこれから問われる。
(休憩)
高所恐怖症の親父がどんどん上に上がり下を覗き込んでいる。足が竦みながら遊歩道の手すりを腹に当てながら撮った写真。静岡御前崎よりも高所感があるけれど、御前崎は灯台の上からの景色。あそこは風が強くて悲鳴を上げていた。ここにはその恐怖は無かった。
狭く急な階段を手を付きながら上に上がって歩道を歩いている。桂浜は車道からすぐ外と思っていたがそれは間違い。月の名勝は岬の先にありました。
この道を車で走ったのは30年近く前。もう日が暮れて暗闇だったから気付かず、その日の宿が室戸だったので先を急いでいた。そんなに急いで何処に行く。あの頃は若かったけれどそんな生き方をしていたのだろう。左の海に突き出している展望台から桂浜が一望出来た。下の砂浜を歩けば行けるのかな?そんな人はいなかった。
この道を唯ひたすらに次の札所迄歩く。途中で案内図が出る迄に相当歩いた気がするが、後ろを振り返ると大した距離ではなかった。これ迄の道もこれからの道もそうなのだろう。人の歩く道は前を見ると遠いけれど実際に歩いて見ると大した事は無い。そんなもんです。多くの事が「大変だ」と思われるけれど案ずるより産むが易し。男は産めないけれど生み出す事は出来る。その事を海を眺めながら考えていた。この日は暑さが最高。日差しを遮る物は何も無く水分補給も無く顔を上げて標識を探していました。
あった。でもここから4キロ。嬉しい様な哀しい様な。その先のベンチにへたり込む気にもなれず横目で観ながらトコトコと歩く。後で聞いた話ではこの右側の防風林の先に生活道路がありバスが走りお店もあったとか。でもその案内図は何も無い。
歩く人に冷たい道やとぼやきながらへこたれずに歩いていた。親父は罰当たりの生き方をしていたが、その受け入れ方も潔いと自分で自分を慰めていた。己の生き方を棚に上げて罰当たりな生き方をしていると、同行2人は夢の又夢に違いない。
道は綺麗だけれどまだこれだけしか歩いていない。遠くに歩き始めた岬が見える。
出た。よく見えないが雪渓寺右の案内図。それでもここからも近くではなかった。予想通り。お昼近くになっていたが腹は減ってはいなかった。黙々と歩いていると何も感じなくなるのだろうか?
通りの横にある公園の藤棚。親父が昨年夏迄働いていた仕事場の横にも立派な藤棚があった。それでも見事さが違う。子供達が小さい頃静岡藤枝の公園を思い出す。2度と見る事も無い若い藤棚は親父に多くの事を語り掛けていた。残念ながらその事を確認する前に見事な香りに圧倒されていた。ありがとうございます。これからも元気で旅人の眼も楽しませて下さい。平日なので子供達の歓声はなかった。
近くの長宗我部元親初陣の記念碑。この地方の豪族の名前は知っていたが、何を為したかは知らなかった。信長、秀吉の天下統一に異を唱えながら所詮従いながら、嫡男を親父の田舎大分戸次の戦いで秀吉援軍で大友宗麟に味方し、島津軍に破れ失う。
大阪高槻城主高山右近、大分の大友宗麟等キリシタン大名は知られているが長宗我部元親もそうだったのだろうか?大分戸次の戦いで敗れた長宗我部元親は嫡男を失った後それ迄の華々しい豪族の姿を失い秀吉の庇護の元、失意の晩年を過ごしたのだろう?
秀吉亡き後天下を握った徳川家康は豊臣に味方した長宗我部を成敗し、関ヶ原の戦いで貢献した静岡掛川城主山内一豊を高知城主に任命する。長宗我部元親の生き方、地方の豪族としての生き方は学ぶ事が大きいかもしれない。
四国33番札所雪渓寺到着です。今日、タクシーに乗らないで歩いていたら本日の宿はここ札所の前の遍路宿になったに違いない。ここ迄歩けたかは疑問だがそれよりも桂浜は歩けなかったに違いない。この時2時過ぎ。ここで泊まるにはまだ早い。
次の札所まで6、3キロ。バスが無いかと納経所のおばちゃんに聞いて見ると、小馬鹿にされる。何でだろう?それくらいの距離が歩けないでどうすると言いたいのだったのだろうか?そんな事で怯む親父ではない。さり気なくタクシーの料金を聞く。
2000円弱。それならお願いしますと電話で聞いて貰うと待機していない。他を探してみるが近くにいない。このお寺の手前でお巡りさんにセルフのうどん屋の感じを聞いた時、さり気なく次の札所の道を聞いていた。いつもの直進道路は崖崩れで迂回しなければと聞いていた。その事もおばちゃんに離すとそれなら分からんと匙を投げられる。「俺の方が詳しい」ニンマリとしながら(イヤな奴)奥の手を出す。
さっきお世話になった運転手。名刺を貰った時「困ったら電話を頂戴」と言われていた。大野さん。電話をすると竹林寺で待機していた。事情を話すとその料金で行きますよと言われる。ところがそれだけではなかった。
次の札所は平坦地の距離だったがその次は山の上。車でないと無理。しかも狭い道。プロでないと走れない。その道を走り宿迄探してくれた。宿は山から海岸迄出て3日目に泊まりたかった国民宿舎。
青龍寺から種間寺が6、3キロ。種間寺から清滝寺が9、8キロ。清滝寺から本日の宿、下の青龍寺迄が13、9キロ。合わせて30キロ近くを一気に運んで呉れる。5000円。歩くと3日掛かりの距離。その価値は充分ありました。少し調子に乗り過ぎてこの日の宿、国民宿舎「土佐」で罰が当たる。
山の上の清滝寺 何でだろう豊後梅の大木がある 梅は咲いたが桜はまだかいなと洒落込む時が、来年来る事を願いながらカメラに納めていた。多くの人が多くの想いを重ねた事をさり気なく語り掛けていた。この梅に負けない生き方はしなければならない。
ここ迄の山道を歩いて上がるにはそれ相応の覚悟が要る。仁王門の上に龍の絵があるが今回は不勉強で眺める事が出来なかった。遠くに見える高知自動車道土佐インターからは3キロ弱。JR土讃線伊野駅からはアクセスは良く無い。この山を左から廻り込んで来るので7〜8キロは間違いなくあるに違いない。この札所は簡単には登れない。
ここにも立派な藤棚があった。

100番の階段も苦にはならなかった。ソリャーそうでしょう。タクシーで来たのだから。(アチャー)次は下から歩いて来れるかな?無理だな。歩いて遍路が出来る人の脚力と体力に脱帽です。親父はそれでもこれで充分満足していました。大野さん本当にありがとうございました。又の再開の時を楽しみに名刺を保管しています。
おしゃれな国民宿舎を紹介してもらいました。料理も景色は良かったのに折角の親父の思いが半分崩される。でもそんな事は良くある話。インターネットのやり方で親父が無線LANをケチったのが原因。共用のパソコンケーブルを外した後の再接続がやり難く、説明を聞いている時に無礼な対応にぶち切れる。説明が丁寧だけれど無礼。
その微妙な感覚が読み取れない。何故か激怒していた。一番大事な事を見失うと利用客からそっぽを向かれる。その事を分かっているのだろうか?又、来ますと言われなくても結構ですはない。国民宿舎の看板を外さなければならない。利用者も考えを変えなければならない。国民の宿?もうそんな時代ではない。
この他に天ぷらの小鉢。でも味は並。(コラコラ)期待外れ?6800円は安い?
遠洋漁業で栄えた港の面影は残っていなかった。30年前にこの橋を渡ったと思うが街に勢いは残っていなかった。街おこし、村おこしは地元で産まれ育ち地元で骨を埋める人で無ければむつかしい。日本各地の過疎地が抱えている問題。それは現代問題になっている多くの事と共通している。
物事の順序を間違うと本当に決定的な間違いを犯す事をまだ理解していない。原発再開。消費税増税。辺野古沖の埋め立て。これからその事が問われる事をどれだけ多くの人が認識しているのだろう?そんな思いをバス停の叔父さんと話をしていました。
最近のコメント