宝塚記念がやってくる。1998年 サイレンススズカ?
宝塚記念と言われても分かる人は競馬関係者。サラブレッドの生産者。トレーニングセンターの厩舎関係者、競馬予想の新聞社関係者、競馬中継関係者。その人達の生活を支える勝ち馬投票劵を買って競馬の醍醐味を味わうファン位だろう。
競馬はロマン。競馬は血統の集大成。競馬は人生そのものとか多くの枕詞(まくらことば)があるが競馬の必勝法は馬券を買わない事。馬券を買わない人でも競馬を知らない人はそれだけの事。必勝法の実感は無い。
きちんと予想してきちんと投資金額を決めて於く。そんな人で無いと必勝法を手には出来ない。そんな馬鹿な?そうおもうでしょう?しかし、今生きていれる事、自体が偶然と微かな必然性に過ぎないと、考えた事があるだろうか?無いだろう。
1998年。この年は今から13年前。このレースで快速ぶりを発揮したサイレンススズカはこの年の秋、天皇賞の晴れ舞台で骨折予後不良となる。(サラブレッドは競走馬、競争が出来ない骨折をすると安楽死しかない。)厳しい現実。人間様の何処かの世界とは大違いです。
1998年 この年の今頃親父は静岡掛川の戸建て2階屋の広い家で1人で侘しく生きていた。「そろそろこの生活に区切りをつけて新たな一歩を」と健気な事を考えていた。この年の秋、親父は大阪に生活の糧を求める。それでも実際に働き始めたのは更に1年の時を重ねていた。サイレンススズカの華々しさに比べて何たる無様。
しかしそれが現実。あれから多くの年が流れ今年もその時がやって来る。今年はどんなドラマが見れるのかと少しだけ期待した間抜けさを見抜かれている。それでも良い。あの時の貧しさは無いがあの時の希望は忘れてはいない。あの時の若さは無いがあの時の空しさは今は無い。今、自分に出来る事。
それは空海の修行の道を辿る事です。今この国には多くの情報が満ち溢れていますが何が自分に必要な事なのかは、誰も教えては呉れません。頭だけでどんなに考えても分からない事は体で体験するしかありません。
肉体で快楽は求めても苦悩を避けて生きて来た証しを、これからは少しだけでもお返し出来なければ、それこそ餓鬼道にも劣る生き方と言われても仕方ないでしょう。空海が伝えた密教の教えは現世をどう生きるかですが、その事さえも見失われたのはこの国の信仰の弱さだったのでしょう。(違うかも。親父の独断です。)
この国でも多くの宗教弾圧が為政者の尤もらしい施策、言葉、お上のお達しで行われているがそれでも例外ではない。多くの歴史、多くの戦いに宗教的な対立も少なく無い。この国が一見これほど平和に見えるのは、この山の厳しさが無いのかもしれない。違う?農耕民族と狩猟民族の違いかもしれない。
明日はお休み。近くのお寺に行ってきます。このお寺は花の寺。紫陽花が見れます。今年は豪華な紫陽花は見れないと思っていたが、昨年秋、久し振りに尋ねた紅葉の寺は紫陽花寺でもあり、弘法大師修行の寺でもありました。
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