春は浅いけれど人の思いは深い。

スタンバイOK。開花の時を待っています。
今年の春は本当に心が重い。叶う事なら高野山の空海の声が聞きたい。
自分1人の苦しみの時は、時の流れと共に失った物の大きさを、笑いながら語れる様になったが、被災地の人達には未だに何が起きたのか、理解出来ないに違いない。
それでも季節は間違いなく後戻りする事は無い。どんなに悲しい思いをしても、どんなに堪え難い思いをしても時は非情です。テレビのニュースを聞きながら解説者がどんなに説得力のある説明をしたとしても、音声は消している。
余りに無惨な風景、余りに遅過ぎる被災地の救援、関係者の懸命の努力をあざ笑うかの如く広過ぎる被災地の景色。人の不安をかき立てる報道の在り方と行政の遅れ。何だ何時迄同じ様なコマーシャルを流しているのだろう。皆でやれば何でも出来る?今程政府の取り組みの遅さを痛感するのは親父だけでは無い。
多くの人の思いが多くの困難を乗り越えて、被災地の生活が少しずつ変わる様に今は祈るしかありません。どんなに不自由をしたとしてもその思いが途切れなければ、必ず明かりは見えて来る。今は耐え忍ぶしかなくても希望の光は必ず見えて来る。
和歌山市紀三井寺の大木は親父に多くの事を教えて呉れた。人の思い。人の嘆きと哀しみ。歓喜の声が遠くなってもいつかは耳元で弾ける時は来る。生きてりゃ良いさとか、とても思えなくても、いつかはその日の為にこの日があるのだろう。
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