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2010年5月 2日 (日)

五月の幕が上がる 

P1000353 桜の開花の時は過ぎ、新緑の頃となる。この画像はすでに公開しているので新鮮味は無いが若葉の大きさが光る。

眼に青葉、山ホトトギス、初ガツオ。

この句は有名だけれど作者は不詳?そんな季節になりましたなあと挨拶の様に口にしても知らない事も少なくない。

それでもこの枝は葉の大きさに比べて、脆い(もろい)。軽く叩かれただけでも落ちてしまう。

相撲の下がりの様な桜の茎が完全に落ちた時柔らかい桜の枝はしなやかになる。其処までの時を重ねなければならない。

P1000354 この楓(かえで)は野村紅葉。新緑の頃にこの色は珍しい。従って江戸の昔からこの樹木が観賞用として重宝されたのだろう。枝葉の間に五月の空が見える。

今年の連休は天気に恵まれる。高速道路は渋滞の距離が延びている。皮肉な事に明日からはUターンラッシュになる。

親父の連休は後3日。今年は荘川の桜が見れるかも。そんな準備が出来る。岐阜羽島から御母衣(みほろ)ダム湖畔迄の道は遠い。

このダムが出来た時、湖底に沈む予定の桜の大木が多くの人の思いで、移植される。桜の大木を重機を使わずに。

P1000355 これも同じ野村紅葉。光線の加減で全く別の樹に見える。この色が五月の色だろう。日々の出来事も同じかもしれない。

味方により景色が変わる。景色だけなら頭を抱えるだっけで済むが、世の中の事はそうはいかない。

それでも多くの事に関心が無くても生きて行けるのはどうしてだろう?。一々、気にしていたら生きて行けないからだろうか?そうではないだろう?

別に庭木を見たり公園や山の風景に眼を凝らさなくても、自分の狭い視野で物事を判断しても何も困らないからだろう。

今日、不毛の論議の中で多くの人は精神の枠の中で自分を内面的に突き詰めずに、適当にあしらっているのだろう。

その反面、自分の本心は大事にしている。当然の事とは言えそれは最大の不幸にして幸福かもしれない。

樹の先に未来の都市が見える。5月の風は爽やかに頬を擽(くすぐ)りながら、駆け抜けて行く。

司馬遼太郎氏は21世紀を生きる子供達にメッセージを残しているが、高齢化社会を生き抜く術は教えていない。

これからどれだけの5月の時が巡って来るのか分からないけれど未来の都市に足を踏み入れなければならない。

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