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2010年5月

2010年5月31日 (月)

明日から6月 激動の月 政局も経済も気候までも?

P1000418 日差しは正に夏。初夏と言うより盛夏の感すらした昨日のひとコマ。青葉の先に野村紅葉が日陰を作っている。

長期予報では暫くはまとまった雨は期待できず、暑い日が続くとか。それでも空気が乾燥し湿気が無いのでまだ本当の暑さを知らない。

今年の夏は今の暑さが嘘の様な冷夏予報だけれど、実際は如何なのだろう。予報は所詮予報かもしれず、この予想外の陽気を思えば強ち(あながち)、その思いも外れでは無いかもしれない。

政局も景気も今の閉塞感を突き抜ければ、一気に久々の解放感に浸れるかもしれない。

その言葉を語れず実行力が無ければ退場しかないだろう。

P1000414 それでも近くの植え込みの花はこの日差しを歓迎している。エコノミストや政治のコメンテーターはしたり顔(もっともらしく)で多くを語るけれど、何の指針にもならない。何故なら綺麗事を語り過ぎる。

どんなに多くの事を為すにしても、言葉や簡単な手法では何も変わらない。最近電車やバスの中でも必ず、多くを語る人に出会う。聞き耳を立てる迄もなく耳に飛び込む言葉は実に他愛ない。

その程度の事をそれ程に語る真意は計りかねるが、断片的に断定すれば実にくだらない。それでも淡淡とお構い無しに語る面は大概が共通して哀れでもある。

この名も無き数多くの花は今年の夏を暗示していないだろうか?

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2010年5月30日 (日)

暑い日差しの中に名残りの5月があった。後1日で6月

P1000416 ヒぺリカム カリシナム 聞き慣れない見慣れないヨーロッパ南部原産の常緑小低木。雄蕊(おしべ)の繊細さに感激。

日差しはもう夏模様。日陰に入らないと暑い。それでも空気が乾燥しているからだろう汗は無い。

後1月もすると暑くなる。その時にはこの花も花びらを落として固い葉を更に堅くするのだろう。暑さを栄養にして葉を茂らせるのだろう。

親父も今年の夏は試練の時だろう。今年の夏だけでなくこの歳になると、毎年がそうだろう。今年は体質の変化が問われている。腹をどれだけ凹ませれるかが問われている。

P1000411 今年も幹の途中から若葉が出る。この樹何の樹気になる樹。顔を画像から離して見るとその凄さが分かる。

分からない。それでは説明しましょう。この樹はカナディアンロッキーのもみの木。(ホンマかいな?)ホンマです。

それよりも幹の皮、見て下さい。この荒々しい木肌の中からこれ程の若い息吹が生まれている。

これが本当の世代交代だろう。年輪のしみ込んだ樹肌から瑞々しい若葉が芽吹いている。人の世の口先だけの何とかとは大違い。

この年期の入った木肌を触ると、過ぎ去りし日の多くの言葉が聞こえる。時空を越えた生命の重なり。

手を当てているだけで感動です。

P1000419 この花が山茶花なら仕事場の外の植え込みの花は一体何なのだろう?あの花を山茶花と思いながらツバキの花を眺めていたが、違っているかもしれない。

それでもこれだけの看板を突きつけられると間違いないのかもしれない。これも山茶花、あれも山茶花かもしれない。

初夏を思わせる日差しの中で、木陰は有り難い。長い間、サングラスを掛ける生活とは無縁だったけれど、これからは違う意味で必需品になる。

眼も年の割にはしっかりしているが、紫外線の強さにも勝てなくなっている。それでいいのだろう。体力は衰える。

P1000417 最後に例の柊南天(ひいらぎ難転)の実を公開して今夜はおしまいです。お休みなさい。

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2010年5月29日 (土)

5月もあと2日 もう一月で今年も半分終わる。それが如何した?

司馬遼太郎氏の「空海の風景」を2度読み終わった感想がそれが如何した?そんな感じ。さっぱり分かった様で分からない空海の風景。文章に親父でも読めない漢字が多く、司馬氏はあとがきで仏教用語を出来るだけ排除したと述べられているがこれで?と思いながら下巻を置く。後2、3回読み直しても空海の生きた平安の時代と、この国の摩訶不思議な歴史は今日の出鱈目がまかりとおる現代を後世の人が理解するのと、否それ以上に難しいかもしれない。国の始まりが記録されている文献をどんなに紐解いても私情と私見が入れば、それは客観的事実とは言えず個人的見解に過ぎないのだろう。

そう考えて見ると人の考え、意見は主観的でありもっと平たく言えば、それはアンタの考えと否定すればいいのだろう。それにしてもどんなに話が合ったとしても、公衆の面前で平然として自己主張を重ねる不細工はどう理解すれば良いのだろう。これから間違いなく不快な思いをせずに公共機関や空間、喫茶店、食堂でも音楽を聞くヘッドホーンは必需品かもしれない。

親父のブログでも同じだろう。こんなつまらないつぶやきでも読んでくれる人が居る。正直に言えば出来れば見て貰いたくない事も少なくない。それでもこれは親父の生前帳。日記では無い。ましてや人に見せる物でも無い。批判する人に何時も言う言葉は無視して下さい。

そう不快な事は無視すればいいのだが、これ程に不快な事も見た以上は無視も出来ない。聞きたくない事は聞かなければ良いが、見たくない事はそうは行かない。見たくないけれど見てやっぱりと不快な思いを重ねる。そんなものだろう。こんなつぶやきも最近は毎日更新している。もうすぐ600回。この調子で行くと1000回も夢ではないかもしれない。

親父の一番嫌いな言葉。それは継続は力なり。何故嫌いかと言えば継続は力ではなく、他にやれる事が無かっただけと思えるから。可愛くないけれど親父の生き様だったしその証拠に勤続30年の表彰を誰よりも恥ずかしく思ったから。年金は加入期間400ヶ月。これは誇りに思ったけどね。このブログも1000回を達成したら君が誰よりも誇りに思って呉れるだろう。それだけで充分。その為にこれからも書き続けるだろう。

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2010年5月28日 (金)

オイオイ、それは無いだろう?

今日はお休み。経済ニュース(ワールドビジネスサテライト・・WBS)を見ていると日経平均株価(東京株式市場)が大幅反発している。原因は色々言われているが、今回株価下落の引き金となったヨーロッパユーロ通貨の下落、ギリシャ、スペインの信用危機は、何も変わっていない。替わった事と言えば投資ファンドの思惑。ファンドとは何か?長い間分からなかったがこの国のバブルが弾けた13年、その前から政府、銀行、個人、企業のレベルで在り余るお金が有りその運用が行われていた。

お金の運用とは聞こえが良いがもうけ話を探り、如何にして損せずえげつなく儲けるかだろう。検察のお馬鹿が言う様に額に汗して働く人が馬鹿を見ない世界では無く、その反対だろう。勿論その運用は法に照らして不正は許されないが、検察が大見栄を切れるのは一部の行き過ぎ。そうでない金融取引は正当な経済活動、金融取引。それが関係無い貧乏人はお呼びでない。その程度だったのだろう。

最近、小銭を爪の先に火を灯しながら大事にして見ると、その事が良く分かる。最近、余り問題にもならなくなったホームレスや生活困窮者、仕事を求める人の問題も政府や行政に出来る事は限られている事が良く分かる。それならば政府、行政はその事を明確に説明しなければならないが、その場しのぎの事しか出来ないだろう。

今回の沖縄基地縮小、辺野古の海埋め立ての決定を聞いて見てもその事を痛感する。アメリカとの日米合議が変えられないのは最初から分かっていた。それでも先の選挙公約で沖縄の基地縮小を口にした政治的責任をお詫びだけで済ませるのだろう。

それでも理解して下さいと言われて沖縄の人が言っていた言葉。「馬鹿にするのもたいがいにしろ」この言葉の重みは時の経過と共に薄らぐと思っているのだろうか?社民党首の福島氏は今回の決定に反対し、連立離脱もやむ無しと息巻いているがこれもパアフォーマンスだろう。本当に政治家は何処を見て政治をしているのだろう。イヤイヤ、これが現実だろう。

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2010年5月27日 (木)

空海と最澄の違い 司馬遼太郎「空海の風景から」

阿吽の呼吸。辞書を引いて見るとお互いの微妙な気持ちが一致する事とある。親父的には言葉の違いや気持ちの行き違いが何も気にならない凹と凸。空海が今生(生きている時)で追い求めた密教の教えは奈良仏教を否定した最澄の天台の教えを否定した。

この国の古(いにしえ)奈良の都で栄えた中国伝来の釈迦の教えも時代の重なりと共に為政者の道具にされる。今でこそ宗教と言えば胡散(うさん)臭く思う人も少なくないが、地方の豪族が朝廷の後ろ盾を得て国の形が出来始めていた奈良の都では仏の教えが、生きる全てで在ったのだろう。

人々の生活は苦しく稲作から手に出来る米もそれだけでは生活は出来なかったのだろう。生きる為には未開の地を開墾するか、略奪、策略、計略を計り人を陥れるしか無かったのだろう。その為には弱肉強食。強い者は生き残り賢い者が他を支配したのだろう。

宗教はそんな人々に希望と勇気を与えたのだろうか?そんな一面もあっただろうが土地も無い農民は僧侶になるか乞食かと問われれば僧侶になる人も少なく無かったのだろう。奈良東大寺の修行僧の戒律が問われたのも当然であり、指導者も同じだった。

現代人が1300年前の昔を感嘆の想いで語るのは間違いではないだろうが、その当時から仏教が政治に利用され踏みにじられ堕落したのも間違いではない。その事を知らないから空海と最澄の対立、比叡山と高野山の対立が今日まで続いた事も知らないで生きている。そして多くの事を尤もらしく語っている。その程度の事だと思えば歴史、人の生き方は実に興味が沸いて来るだろう。

人の生き方は突き詰めて考えて見ると実に果敢ない。空海は真言密教に人の生き方を求めたがこの本はその事は教えていない。空海が追い求めた今生(現世)の生き方は無ではない。現代でも京都奈良の仏教界の教えは心を無にして虚心坦懐(きょしんたんかい)とか尤もらしく言われるがそれは座禅修行の話。現実の世界はそんな綺麗事は通じない。

空海の世界を読んで行くと凡人を超越した天才の頭脳と類稀(たぐいまれ)な才能がある。四国讃岐の豪族の家に生まれ、立身出世が約束され奈良仏教の勉学を捨て乞食僧になりながら四国の山野を駆け巡る。言い伝えではその時、悟りを開くと言われているが当時はまだ若い。一念発起して遣唐使に志願する。当時の航海は安全を約束されていない。

当然、唐に渡る前に難破する。舟は目的地より南に流されるが生きて唐の地を踏めたのも幸運だったのだろう。驚く事に当時の遣唐使の任期は20年。生きて帰れる保証も少ない。帰れなかった人も少なくない。その期間を2年で終える。目的の教えを譲り受ける。何たる才能だろう。しかし、その才能が帰国後最澄との対立となる。

最澄は空海と同じ年時の遣唐使船で国の指導僧として唐に渡り、1年でその目的を達成した帰国する。空海とは唐で習得する事が違う。奈良仏教の停滞を越える天台宗の教え。それだけで十分だった。しかし、帰りの途中に教えを受けた密教の一面。それも合わせて持ち帰りそれが当時の朝廷の評価を受ける。これが思いも寄らない空海との対立となるとは。

空海は20年の任期を2年で切り上げた真意は分からない。天才ゆえの計略が在ったのかもしれない。それでもこの天才の計略は計り知れない。帰国後、持ち帰りの教典目録を提出したのみで九州筑後の国の出先機関で朝廷の沙汰を待つ。この期間。1年と半年。

この後、近畿和泉の寺で暫くの時、謹慎の時を送る。しかし、この時無為の日々を送る事無く真言密教の確立を計ったと言われる。何の為に?今日言われる様に人々の為ではない。国家、朝廷の為でも無く宗教の為だったのだろう。今でこそ宗教各派の違いは無いと掛川大雲院の大和尚に言われたが、そうではなくそうでなければ天台と真言の宗教対立は無い。

この話は今日は此処まで。司馬遼太郎さんも多くの文献を読んでいるが空海と話をした訳ではなく、多くの話に個人的思い入れもあるだろう。それを差し引いても当時の天皇も人の子だったのだろう。薬子とか言うオバはんに何で牛耳られなければならなかったのだろう。

そのオバはんも楊貴妃の様にうら若き絶世の美人でなく年増と言うから、身につまされる。このオバはんも再起はない。楊貴妃と同じ毒殺。何とも哀れ。それでも楊貴妃の方が詩的かもしれない。司馬氏が言われるようにそれだけ若い。

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P1000412 ちぎれ雲がすごく近くで流れていた。もうすぐ6月、昨日のまとまった雨が上がり天気は良いが肌寒さが戻る。

それでもこの陽気が何時もの5月末だろう。雲の流れ同様、政治の世界も経済も流れは速いけれど、見失ってはいけない。

今夜は久しぶりにキノコ鍋(汁)。これに納豆の大粒があればGoodだったのだろうが、安売りの卵とお土産の飛騨牛のふりかけ?が意外に合う。

5月はなんか別れの時が重なったけれど6月はハイジに会える。日本は梅雨空だけれど、スイスは爽快な空が見えるだろうか?

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2010年5月26日 (水)

五月の時は駆け足 五月の時も同じかな そんな気がする

P1000410 近くの五月の名所の花は雨に打たれて見頃を過ぎる。この花は仕事場横の植え込み。遅咲きの小さい花は未だ満開では無い。携帯のカメラを近ずけてのショットも何故かピンクが強すぎて、清楚な感じが無い。

人の生き方もそうだけど、どんなに綺麗な姿形でも色気が出ると興ざめ。薄汚く見えるのはお互い様かもしれない。

五月の花の特徴だけれど、本当の美しさを見せる時は一時。この植え込みの若い木でも、アップに耐えられる時は難しいのかもしれない。

五月の花の美しさは植え込みの密集した花では無く、盆栽の限られた花びらかもしれない。

昨日書いたヨーロッパの統一通貨ユーロの下落は、ギリシャの財政危機に始まり今もその問題は何も改善していない。そればかりでなく同様の問題がスペインに飛び火し、財政危機の連鎖は他の加盟国にも無関係ではない。その時通貨の番人である欧州中央銀行に為す術は有るのだろうか?投資ファンドとの凌ぎ合いは弱みを見せた方が負けだろう。

今はイギリスは見物人で済んでいるがイギリスポンドも一時の勢いは無い。フランスとて同じだろう。ユーロの通貨でヨーロッパのどの国は投資ファンドに勝てるのだろう。ドイツはから売りを政府が禁止したが皮肉にもその事がユーロ売りに繋がっている。

経済新聞は無責任にも「ユーロは試されている」とコメントしているが、このままでは完全に叩きのめされるだろう。加盟国の経済体力が違うのに統一通貨では金儲けが目的の投資ファンドに対して為す術が無いだろう。禿げ鷹ファンドとは言い得て妙。喰い尽される前に追い払えるのだろうか?国際協力?一度牙を剥(む)かれたらそんな平和主義は通じない。それが金融の怖さかもしれない。

今日は水曜日。昨夜のアメリカの株式市場は大幅ダウンだったが今日の日本は流石に下げ止まる。それでも下降の流れは止まらない。景気回復は確かでも株価の下げが止まらない。何たる皮肉だろう。上海万博で中国の経済躍進がマスコミから伝えられる度に、舌を出して笑っているのはトンボだけではあるまい。しっかりしないとあきまへんで。

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2010年5月25日 (火)

グローバル経済 処でグローバルってなあに?

グローバル。世界規模。地球規模。グローバル経済とかグローバルスタンダードとか言われるけれど経済の規模が世界的に広がり、それが国内の経済に大きく影響する。お分かりか?それでも関係者は兎も角多くの人にとっては関わりの無い事で、日々の生活保障は続くとでも思っているのだろう。他人事では無いと思いながら日々疎かにしないと、とんでも無くなるとはその身に災難が及ばないと実感しないのが現実かもしれない。

健康も安全も生活保障も人に頼るのではなく、自己の研鑽(けんさん…古い)他ならないがそれも難しく成り行き任せが関の山だろう。医学がどんなに進みこの国がどんなに安全と自慢に語られたとしても、生活の保証は一寸先が闇で在る事を知らなければならない。

今、ヨーロッパ統一通貨ユーロ(知らない?そうだろうな)が揺れている(ユーロ)。問題はその原因。(どうでも良い?まあ聞きなさい。如何でも良くは無いのだから。) ギリシャの債務不履行(通称ギリシャ危機)の心配が現実の問題となり、国家財政が破たんの危機に在る。

それでもギリシャだけの問題ならさほど深刻ではない。ヨーロッパ経済連合が債務保証を約束し、債務危機は終息すると言われていたが現実はそうではない。ユーロの価値が下がると損をする人だけでは無い。皮肉にも大儲けが出来るファンド(投資機関、投資家、額に汗して働かない人・・・検察のお馬鹿が日本のインチキ投資家をなんかそんな言葉で行ったよな)が次のターゲットをスペインに向ける。こうなると暫くは上がり、下がりの攻防が続く。

親父の独断と偏見では今週はこの攻防も一段落しユーロの価格も下げ止まりと根拠のない思いをしていた。ところがユーロは円に対して109円台となる。この流れが止まらなければこの国の経済も深刻な影響を受ける。その危機感が無いのはこの国の経済が安定しているからなのだろうか?そうでは無い。グローバルな経済の知識が無いからだろう。

今週は少し注目して経済の事を知らなければならない。公益法人の事業の見直し?それには何の拘束力も無くこの国の役人が如何に税金のムザ使いをしているかの表れに過ぎない。政権交代の選挙で問われた無駄とは一体何だったのだろう。

この国の役人と政治家の言動不一致は今に始まった事ではないが、皮肉にもユーロ危機はその事も問いかけている。信じられない事だがギリシャで富裕層の税金不払い。この国の財政危機も一方でこんな不条理を続けていると、他人事で無くなる。

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2010年5月24日 (月)

まとまった雨の先に見える物

P1000409 久々のまとまった雨が上がり、桜の実に水滴が残っている。画像は少しピンボケだけれどそれが又渋い。(自画自賛)

この桜の実は何度も書いたが、佐藤錦(山形のサクランボ)最高品種には似ても似つかない。

何の為にこれだけの美しさを保つのか?それは人間様の思いで有り、桜の実しょうには関わりの無い事だろう。

見るだけ。眺めるだけ。手にとって感覚を確かめるだけ。間違っても口にするな。水滴を滴らせる前のベスト、ショット。

大地の熱気が一気に冷やされる。今週は先週までの暑さが少しは和らぐのだろうか?頭を冷やせ。地に足を付けろ。

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2010年5月23日 (日)

久々のまとまった雨 大地の怒り 大地の嘆き 大地の恵み

昨日の暑さが嘘の様にまとまった雨が大地を叩き、跳ね返りの水玉が王冠を作っては消える。薄手の夏ズボンが横殴りの雨で濡れる。昨日の暑さなら心地良いだろうに気持ち悪い。駅からの道は遠くないけれど買い物袋を提げながら歩くと近くは無い。

昨今、環境問題はクローズアップされ社会問題になっても、根本的問題は何も変わらない。お間抜けな政策で当座の問題を尤もらしく問題にしながら、それでも文明と経済が地球環境と大気温を大きく変えている事を直視していない。経済発展が環境問題に優先すると平然と語る近隣の国に、世界のリーダーたる資格が無い事を蒼い地球が教えている事を、どれだけの人が理解出来るのだろう?

正直な話、この緑豊かな瑞穂の国も地方の山と川は荒れ果てている。森林資源は南シナ海の安い木材に価格競争で負け、林業の衰退は年々加速している。最近、杉花粉の問題で地方の杉を切り倒せと平然と語るバカが入るが、荒れ果てた森林の本当の暴走はそんな物では無い。山が荒れ大切な木材が放置されれば都会人は水不足と洪水で難儀する事を知らないのだろう?

川は全国ありとあらゆる処でダムが作られ水の流れが細り、河口の砂浜が浸食されている。自然の摂理を壊し治水、用水の名のもとに全国の大河が細っている。豊かな水量をせき止めて有効に利用させて頂く黒部のダムならともかく、愛知西北揖斐川上流の徳山ダムの費用対効果を多くの人は知らない。それでもまだまだダム建設の要求に陰りは無い。

来週は不順な天候が肌寒くなる。今迄が暑過ぎたのだからその反動だけれど、身勝手な人はそうは思わないだろう。うっとうしいとかすっきりしないとか。お天道様も気分が悪いだろう。来月になると梅雨前線が活発となり、田舎は田植えの頃となる。最近は専業農家も少なくなり田植えの頃も何故か早くなっている。何故だろう。

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2010年5月22日 (土)

腹筋始めたよ 足は上がらなくなったけど・・・替わりに踵ジャンプも始めたよ

先日のお湿りが嘘の様に今日は夏日。それでも本当の暑さはこんなもんでは無いけどね。本当の暑さを感じたのは駐車場の交通誘導をやった8年前。それ迄も夏の日差しを浴びて顔を真っ黒にしながら大阪の街中を歩きまわった事もあったけど、本当の暑さを感じたのはあの時だった。鬼気迫る思いが体の中を充満していないとあの暑さには耐えられなかった。

それでも顔をしかめる事も無く平然とした表情で愛嬌を振りまいていたのは、一体何だったのだろう?真っ黒に日焼けした顔を待機の僅かな時間に水道の蛇口に近づけて、クールダウンをしていた。夕方になり太陽が建物の向こうに沈む時、やっと人心地がしていた。

あの頃の事を考えると、今の暑さは凌ぐ場所が在る。電車やバスのクーラーの効いた場所で扇子や新聞などでバタバタ風を扇ぐ(あおぐ)人を見ると、人の哀れを感じる。こんな人は間違いなく長くは生きられないと思うのは余計なお世話だろう。

とにかくこれから急に暑くなる。クーラーの温度を20℃近くに下げてそれでも効きが悪いと平然としている人も流石に路上では、犬の様に舌を出して歩く訳にはいかないだろう。その為にも暑さ対策は体力アップだろう。腹筋をしてブヨブヨの脂肪を落としボクサーの腹に近づけなければ鼻先で笑われる。

1年前、マリアに笑われた踵落としは出来る筈をなくなったけれど、先日電車の中で青年に絡まれている中二の生徒を助ける。それも格闘技が出来なくても相手によりけりだろう。青年よ大志を抱け。オッサンよ体を鍛えよ。攻防の構えを忘れるな。これからの年寄りは口先だけでは生きて行けない。世渡り上手でも災難は弱い者に振り掛る。見て見ぬ振りも出来なくなるよ。難儀な世相を嘆く事も無い。替わりに踵ジャンプとアバラを開け。?

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2010年5月21日 (金)

テレビもラジオもおしゃべりが多すぎる 不愉快な笑いもあるよ

今日は24節気の小満。なんか卑猥な感じの言葉の意味は?何だったけ?ちょっと待ってて。パソコンの辞書で調べるから。万物が成長して一定の大きさになる時。こんな感じかな?

P1000404 サクランボ。でもこの実は食えない。何故かって?桜木の種類が違うから。佐藤錦のサクランボの樹がエリートだとしたらこの桜木は何だろう?普通、一般、大衆

この桜木も枯れる寸前で今年も若葉が芽吹き、サクランボが色づいている。それでもこの実は不味くて口がしびれる。

こんな桜木もある。幹の3分の一は朽ち果てても残りの幹は今年も勢いに陰りは無い。それでもこの枝葉が枯れる時は遠くない。幹の根元に除草の薬品が掛り表面がボロボロになっている。

人の生き方も同じかもしれない。一見、生き生きと輝きながら、朽ち果てる時も遠くは無いのかも。輝きの時を笑うに笑えない人も少なくない。

自分の命の重みを問え。大きな声で笑い合うのも良いが、その笑い声を作り笑いをしながら聞いている人の事も忘れるな。

P1000402 サクランボの実に虫が停まっている。この虫もウマそうな色に騙されたのだろう。停まって見たものの皮は堅くてかじれない。針を差し込んでも不味い。

それでも折角見つけた大きな実。どうしょう。そんな感じで身動きの様子がしない。その内諦めるかな?かな。

葉っぱもいつの間にか固くなり、下の葉は可愛い穴が空いている。食われたか。そう。かじられました。

これから芒種(ぼうしゅ)の時を過ぎ、梅雨の大粒の雨に叩かれても、気高く生い茂るだろう。今年の夏、日差しを凌げば大丈夫だろうか?何が?来年の開花。

それは間違いないかも分からない。

P1000403 昨日も紹介した柊南天の実。ブドウの様にたわわとまで行かないがお見事。この観葉植物は葉っぱに棘が在り、それが家の魔除けとして重宝される。

誰もこの実に興味は示さない。美味そうな実も口が歪んで吐き出す。それでも口の中がえぐい。

親父もこの樹にこれ程の実がなる事を今年初めて知る。それが如何したと言う訳でもないが人の知識もその程度だろう。

柊(ひいらぎ)南天の木も知らない人は少なくない。その程度の物。その程度の事。この実も役に立つのだろうか?

それは人間様の考え。役に立たない多くの営みも少なくない。

P1000405 白いバラが満開の時を過ぎ、落下の時が近い。親父の様な株とは無縁の生活者には関係の無い日経株式市場の大幅下落。原因はギリシャ国債の信用不安。

ヨーロッパの経済は日本、アメリカ、中国の様に単一国家、単一通貨では無い。日本は円、アメリカはドル、中国は元。

ヨーロッパはイギリスがポンド。後はドイツ、フランス、イタリア、ポルトガル、スペイン、ギリシャなどユーロ加盟国が統一通貨(ユーロ)。

そのユーロ加盟国のそれどれの経済力が違うのに統一通貨。その弱点を投資ファンドに突かれる。

アメリカの金融危機、金融破綻、この国でも問題となった金儲け万能の禿げたかファンド。

資本主義の行きつく先は共産主義と笑えない冗談を若いころ聞いたが、笑えない冗談が現実の社会になりつつある。21世紀のリーダーは中国?冗談でしょう。この国の笑えない冗談は奈良の昔、この国の大使が当時の大国中国の隋に派遣され、「日いずる国の天子、日没する国の天子」と挨拶をして無礼と追い返される。当時の中国隋は世界ナンバーワンの国家。

それから多くの使いを出しながら多くの国作りと仏教、文明を学ぶ。その大国中国が大国ゆえの混乱から20世紀には帝国主義の侵略で国破れる。その混迷、破たんの時を救ったのが毛沢東の共産党。大国中国は広い国土と多くの農民が国の再生を計る。

それでも国の経済が世界一に肩を並べる様になったのは、21世紀になってから。正確には数年前からだろう。一国2制度?共産主義経済に資本主義?金儲け有り。そんなの有り。

なんか話がずれて来たが株式市場の話は難しい。経済の話も難しい。それでも市場経済とか額に汗して働き人が何とかかんとか言われても、そんな甘ちゃんでは無い。この国の検察にもお馬鹿が入るが正直者でも経済の魔ものには勝てない。

あの検察の検事、今は何をしているのだろう?ヨーロッパの金融危機はそんな人の思いを嘲笑いながら収束の時を覗っている。暫くは底値を探っても盛り返すだろう。何で?下がれば上がる。上がれば下がる。それが投機マネーの必衰だろう。貧乏人には関係ないか。

沖縄も基地問題が論議されてもアメリカは尤もらしい事を言いながら、沖縄を手放す事は無いだろう。アメリカの世界軍事戦略。大統領がオバマに変わっても何も変わらない沖縄の人々の犠牲。しかし、良く考えて見ると沖縄の軍事基地は本当に要らないのだろうか?

軍事基地は軍需産業であり美味しい思いをしているのはアメリカの軍関係者だけでは無い。その事を何も語らないで沖縄の基地縮小、海外移転を尤もらしく語ってきた鳩山、民主党政権の責任は間違いなく、今度の参議院選挙で問われる。?関係無い。そうかも。そう、多くの国民的問題も株式市場の株価暴落も一般庶民はお呼びで無いのだろう。

そうして日々の生活だけは厳しくなる。

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2010年5月20日 (木)

明日の京都の最高気温30℃ 薄暑では無く夏日 いくらなんでもそれはあんまり

P1000386 柊(ひいらぎ)南天の実は完熟の時を迎えている。一見ブルーベリーに見えるこの実は口には出来ないほど不味い。

これだけの多くの実を何故付けるのかも分からない。それでも良く見ると感嘆の思いが込み上げて来る。

感無量と言うには大袈裟だけれど多くの人の目に触れづ、これだけの営みを重ね人知れず実を落とし、繁殖を重ねる。

何の為とか全く意味が無くてもお構い無し。生命の循環。親父も今、全く同じ生き方をしている。この雑然とした茂みの中で、命の交換の実が整然と行われている。

この植物も手を掛けてやれば綺麗な庭木になる。それも無用と放置されてもこれだけの生命力に枯れる事は無い.

P1000398 桜の若葉もこれだけ大きくなる。この葉が夏の日差しを受け止めて更に成長する時、来年の桜花を約束するだろう。

この桜の実も不味い。この実を完熟して落下すると新たな生命力と成るのだろうか?桜の苗はなかなか育たないと言われる。

それでもこれだけの多くの実は、健気にも(けなげにも)色付きを重ねて落下の時を待つ。その時は何時の事だろう?

梅雨だな。天地の潤いが満たされる時。葉を叩く大粒の雨がその時を呑み込むのだろう。それでも根を付ける実は在るのだろうか?難しい。

桜の苗はそれ程に育てるのが難しい。それでも飽くなき挑戦。それは桜木の無言の営みです。

P1000396 雨にバラが打たれて頭を下げている。このまま日差しが強くなればかま首を持ち上げるが、これ位の下向きの謙虚さも必要かもしれない。

今朝、出勤時、駅前広場で政党のスーピーカーが、が鳴り立てていた。親父からぼろ負けだと怒鳴られる。

私が決める。5月末までには結論を出します。出来もしない事を尤もらしく語っても支持されると思っているのだろう。

バラの花を見習え。この花を胸に飾って誇らしげに政策を語ったのは、そんなに前の事ではないだろう。

バラの花が頭を下げても人間様が不遜な生き方をしていたら、そのしっぺ返しは小さくない。その事を何時思い知るのだろう。

P1000397 桜の幹が完全に若葉で隠れる。4月の時には予想も出来なかった若葉の芽吹き。そして眼を見張る茎の伸び。

来月の梅雨の時は近いが、その時までにはもっと茂るだろう。そして雨水を貪欲に吸収するのだろう。

夏の暑さをどれだけ遮れるのかは問題では無い。CO2を吸収して光合成をかさねる。どれだけ養分を取り込めるのだろう?

養分?根元に魚粉を撒いて下さいと言われている。お頼み申します。根に力を。精一杯、葉は広げるからと言っている。

梅雨のはしり。そう、もうすぐ梅雨の時。明日は日差しがきつくて夏日?それでも来週は又、冷える。風邪引くな。

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2010年5月19日 (水)

恵みの雨 クールアース 昨夜来の雨はお湿り 程度

昨夜銭湯の帰りに雨に合う。親父さんがぼろい傘(失礼)を貸して呉れたから、コンビニにも寄れたがその雨も長くは続かず朝は止んでいた。その雨が10時過ぎから又、時雨(しぐれ)る。今日もお休みだったから朝のコーヒーは近くのお店で済ませる。

自転車では傘を差さなければならない感じで歩く。春雨では無く5月のこぬか雨。小雨で濡れる程度。久しぶりの休日の雨。仕事の時は6時50分前に時間を気にしながら歩く駅への道も間延びしている。人通りは多くない。

最近この道もお間抜けが多く右側をスタスタ歩いていても、前からも後ろからも靴音を立てて歩いて来るお間抜けを避けねばならない。最近、普通に歩いていても相手を避けないとまともに肩や足が触れる。それだけ年を取り迫力が失せたのだろうか?

そう言えば電車の中でも相手を威圧する眼に見えぬ力が消えている。段々、なんだかんだ言われても年を重ねる事はそんな事だろう。仙人にならなければならない。今は仙人どころか普通のおっさんにしか見えないのだろう。

2年前、首になった職場でガキに「おっさん、かかってこい」と舐められていた。今のガキ達も同じだろう。醜い年寄りになりたく無ければ格闘技と銭を貯めなければならない。今、巷では尤もらしい事が尤もらしく語られているが、奈良平城京の昔から人の世の多くの思いは大差ないのだろう。

その証拠は今夜夜10時からの某国営放送の「歴史、ヒストリア、遣唐使物語」を見れば分かる。今から1300年の昔からこの国には学びの思い、無知、無学、策略があった。今、奈良で多くの税金の無駄使いをして平城遷都1300年のイベントが行われているが、多くの人の思いが踏みにじられた歴史を語る人は居ない。もっと歴史に学べ。無知と無学は違うと思っていたが空海が生きた風景を司馬氏が語る言葉は、非常に厳しい。

何が厳しいか?政治の在り方だろう。政治を司る(つかさどる)朝廷の在り方。平城京、長岡京、そして平安京。最澄の天台宗、空海の高野山。(空海が平安の初期、嵯峨天皇の庇護を受けた頃は高野には居ない)。朝廷は藤原の勢力に取り込まれその藤原も3つの勢力が策略を巡(めぐ)らし、悲惨な権力争いを続ける。腫れもので言えば組織が赤く腐り、膿が膨張して皮膚が弾ける寸前にあったと言いきっている。何たる無様。何たる非道を繰り返したのだろう。空海も真言密教の布教の地を高野山に得るが、現代人が考えるほど聖人では無い。

京都に行く。親父が若い頃利用した市電は既に亡くなり地下鉄。この歴史も古い。久々に利用したが乗降客は多い。それでも本当にこれだけの立派な地下鉄が必要だったのだろうか?これだけの公共アクセスは建設費用を永遠に回収出来ないだろう。

P1000391 烏丸今出川同志社前の出口。流石に年寄りの姿は見えない。若い学生が利用するのだろうが、時間帯がずれると誰も居ない。そうだろう。この階段。年寄りの利用を考えていない。

この狭さ。この角度では手すりを付けるのが関の山。エスカレーターは何処に有るのだろう?有りません。階段のみ。

オイオイオイ。こんな地下鉄。誰の為に作ったの?確かに烏丸通りの車の流れは良くなっていたけどね・・・。

路面電車が無くなり、人の流れは地下深くに潜る。親父が若い頃下宿していた頃に走っていた路面電車は今、広島を走っている。

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お店は若い頃と比べて綺麗になっていた。赤いひさしとショウケースが出来たからだろうか?看板の向こうのお店が昔八百屋さん。今は廃業していた。親父さん、如何したのだろう?もう寿命?若い頃お世話になりました。

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2010年5月18日 (火)

お腹が醜い2段腹 政局も醜いね 親父は腹を凹ませるけれど政治はかわれるのか?

人の事をどんこん(どうだこうだ)言う前に自分に出来る事をやる。最近痛感する事はその事です。そんな事は当たり前だと長い間自分に言い聞かせていたが、当たり前の事が当たり前には行われていない。昨今の社会現象を見ても人の事は何だかんだ言えても、自分の事は棚に上げている。だから何も変わらない。それだけでは無いだろう。同じ事の繰り返し。状況の革新的改革は何も無い。それが簡単ではないから苦しみも多いのだろうが、ならば原点に立ち帰り親父が22の時に決意して自分の進路を決めた様に、今、自分に出来る事をやる。それしかないだろう。親父の場合、2段腹を腹筋で更に凹ませる。それしかないだろう。

P1000388_2 ばらの花は良く見ると本当の美しさはつぼみの時かもしれない。人間もそうだろう。完全に花開いた時には、黒斑点が見え花びらは落花の時を迎える。

もう一つ。綺麗な花弁は少し遠眼に見れる方が良い。画像は接近しているが、顔を少し離すと、花びらの躍動感が見えて来る。

人も同じだろう。手に触れる迄もなく、顔を近づけると嫌な物が見えて来る。どんな美男美女もアップに耐えれる人は少ない。

つぼみが綺麗に見えるのは、そんな醜さが見えないからだろう。君はばらの香りを嗅いだ事が有るか?香水の匂い?あれはもっとイカン。

P1000387 やっと実った柊(ひいらぎ)南天の実。棘(とげ)が鋭い観葉植物との出会いは、静岡掛川の門扉の植え込みだった。あの植物にこれだけの実を見た事は無い。しかも薄緑の実が紫色に色づく事も知らなかった。

何も手入れのされないこの樹もすっかり大きくなる。綺麗に刈り込むをされたらこんな雑草には見えないだろうに。

今の親父の姿に重なる。棘が在り優しさが無く無視されている。それでもどうだ。この鈴なりの実は。しかし、この実に何の意味が有るのか?親父にも分からない。

それでも今年もこれだけの実を付けて誰に見られる訳も無く夏を迎える。この時期に実を付ける事も珍しい。

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2010年5月17日 (月)

五月中旬 初夏と言うより夏が来た?

今日はお休み。休みの日の行動パターンは決まっている。予定が無ければ9時起床。テレビの経済ニュースを見て近くの喫茶店。モーニング食って家に帰って雑用。11時から再び経済ニュース。お昼近くまでのんびりして弁当。これも決まり。午後は夕方までのんびりして山に行く。夕飯は近くのスーパーで買い物をして一人で済ませる。このパターンが長く続いている。何時まで続くのだろう?死ぬまでだろう。最近、こんな一人暮らしの親父が多くなっている。色々事情があろう。それでもがんねん(田舎の方言で体のゆう事、自由)が効かなくなると一気に哀れになる。その時人は何を思いどんな生き方をするのだろう。絶望?人は希望と共に若く失望と共に老い朽ちる。これはアメリカ、サミエルソンの言葉だけれど、この国の老後を考える人々は何と表現するのだろう。

10年近く前に全国紙で姥捨て山の事を語られていた御婦人は今、どんな生き方をしているのだろう。閻魔(えんま)大王の面接を受けられて天国で幸せに暮らしているだろうか?そんな馬鹿な事を考えながら難しい漢字と言葉を飛ばして読んだ司馬遼太郎の「空海の風景」を読み直している。

今、(下)巻の前半空海が遣唐使で行っていた唐(今の中国)から戻り大阪和泉の槇尾寺に謹慎している頃の話。何故謹慎かと言えば遣唐使の派遣期間は20年。(びっくり)それを2年で切り上げて帰ってきたから。朝廷の指示待ち。しかし、この頃の朝廷も藤原氏との癒着で権力闘争に明け暮れ、朝廷を支持する藤原氏も一枚岩では無かった。4つに割れそのうちの一つは既に勢いが無く3つの勢力が抗争を重ねていた。そう仁義なき戦い。今も昔も政治を司る(つかさどる)人達の醜さは変わらない。

空海が遣唐使の20年の期間を全う(まっとう)しなかった事を、司馬氏はこう解説する。空海が自分から志願して遣唐使船に乗ったのは当時の仏教に愛想(あいそう)をつかしていたからであり、その教えを唐で学べば20年の歳月は無用であったと。凄いと思うよね。

十分の一の期間で目的を達成しただけでなく、類、稀なき書道と言葉の才能はいかんなく発揮され真言密教の教え、教典、仏具を自分が持参した砂金(家が讃岐の豪族、支持者の寄付)で賄った(まかなった)と言われる。

それでも期間短縮の司馬氏の表現は興味深い。この後、遣唐使船は50年後となりその時帰らなければ、今日の空海の評価は無い。帰国後、福岡筑紫の地で1年、大阪和泉の地で暫くの時を待つ。この時今日の都も混迷の時を重ねていた。

空海の能力はこの後、京都高尾山で大きく開花する。一緒に唐に渡り先に帰国していた最澄との確執もこの時から始まる。本当の事は分からない。最澄は比叡山延暦寺天台宗の開祖。若くして朝廷の庇護(ひご)を受ける。空海の乞食同然の若い頃と大きく違う。

しかし、それも最澄の打算(ださん…計算、策略)ではない。朝廷の平安京の鬼門とされた。その意味では最澄も悲運だったのだろう。空海と言う真言密教の天才がいなければ言われなき誹謗の言葉を空海から浴びせかけれれる事は無かっただろう。

最澄は自分の非才(真言密教)を空海に告白し教えを乞う。空海もそのつもりだったと言われる。しかし、両雄並び立たず。最澄がどんなに努力をしても空海のもとで長い修行が出来る筈も無い。最澄はやむなく空海から教典を借り本で学び取ろうとする。それを空海は理解出来なかった。

四国八十八か所。今日多くの善男善女を弘法大師の悟りの道を歩く。同行二人とも言われるが天才空海の教えは天才であるが故の悲劇も又、歴史が証明する。彼の教えは今尚、高野山に登れば脈々と教え継がれているが、多くの凡人にはその真言は理解されていない。

信じられない事だが高野山は空海没後50年足らずで、空海が否定した教えが主流となりそれが明治の世まで続く。空海が唐の高僧から教えられた言葉。真言とは一体何だったのだろうか?空海は多くの言葉を書き遺しているが、密教の言葉の意味さえもが死語となり、現代人の精神的支柱にすら成り得ていない。空海が命を削って求め悟りを開いた言葉は、以外に今日でも通用するのではないだろうか?何の為に行き何の為に死すのか その言葉の回答は無い。連休の時高野山に登り奥の院の参道を歩きながら、多くの人の思いと杉の大木に眼を奪われていた。

Img_1720 今年も老木に若葉の頃が重なる。今年は開花の時を見れなかったが、どっこい生きている。幹の様相に比べて若葉の茂り方は半端ではない。

これが生きる力だろう。この画像をアップし直してみる。

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凄いよね。このこぶし。握りこぶしでもカラオケのこぶしでも無い。幹のこぶし。

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これは又高く、そして天空に緑の若葉を広げている。早苗の森の銀杏の大木。どうだ。

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若葉の影が幹に写り込んで結構見づらい。それでも公開したのは若葉の勢い。どうだ。

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しつこいけれどこれでおしまい。樹齢250年の大木は今年も元気でした。

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これはもっとひどい楓の樹。楓(カエデ)紅葉の時にもう一度お見せするが、枯れていない。左上に伸びる中枝はその先で二股に分かれている。幹の中心がVの字に裂け、その先の枝がVの字に伸びている。これが空海が教えて呉れた人の生きる力、生命力だろう。違うか?その事を見誤ると人の生き方も変わってしまう。その事を忘れた人も少なくない。この画像はその事を教えている。これからどう生きるかが問われている。

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二つの樹が重なっている。左は楓の樹。右は雑木。五月の時、それどれが自己主張している。

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常夜燈。刻まれている文字は宝永と読み取れる。江戸時代からひっそりと鎮座している。

Img_1739 公園のベンチ。流石のお親父も座らず。それでも今年の夏は避暑に来るかも?その為にはもう少し日陰がほしいね。

これからの若葉の成長でどれだけのエリアが確保できるかだね。近くの山の方が涼しいかもね。今年の夏は暑そう?エアコン必需品だね。

それまでにメタボな体重。ベルトが切れる様な腹廻りを何とかしなければならない。親父が週末手にするスポーツ紙のコラムに減量進行形のコラムが在る。その人の体重親父より少ない。それでも足腰に負担が掛りぎっくり腰。心機一転。貧乏な生活改善の一石二鳥の食費の切り詰めをやって成果を出している。親父は其処までは出来ない。それだけまだ切羽詰まっていないのだろう。しかし、腹を凹ませるには腹筋と食事量を減らすしかない。それが出来るか否かの勝負だろう。禁煙もそうだった。成功の秘訣は決意ではなく追いつめられる日々の生活に違いない。それが無ければ欲の塊の人間の決意程軽い物は無い。

本当の賢さは其処まで追い詰められるまでに事を為す事だろうが言うは易し、行うは難し。腹の廻りの贅肉の廻しを弄り(まさぐり)ながらそう思う。まさぐるとは言い得て妙。最近、そんな喜びも無いが人間の活力は思いも寄らぬ物かもしれない。

健康に留意をするのは必然の事であるが、一時期高かった血圧も薬を飲み始めて標準値の範囲に入る。血圧が下がっても高脂肪、高血糖の体質は変わっていない。今日、掛り付けの内科医で血液検査をして体質の変化を見る。結果はすぐに出るが今はその結果を聞くのも医療費が掛る。健康もお金。でも予防はお金に替えられないかもね。

医療費もバカにならない。それでも自己管理が出来ている人はどれ位居るのだろう?健康食品も多くなりそれぞれがそれぞれの方法で自分の体をコントロールできる。その事も忘れ去られた時親父も要介護者になるのだろうか?

自分の体は自分で管理しろと言われるまでも無く、18の時大阪に出て来た時から心掛けて来た。一人の生活になって14年。一番、その事を思い知らされた時の事を忘れてはならない。家康遺訓。{心に迷い起こらば困窮した時を思い起こすべき}。そう元気が在れば何でも出来る。女々しく生きるな。雄々しく高く伸びる銀杏の様に存分に生きよう。

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2010年5月16日 (日)

神仙桑抹茶ゴールド 健康茶のすすめ

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず この言葉は郷土の誉れ福沢諭吉の「学問のすすめ」の初めの言葉とか。親父は中学の時この言葉を学んだけれど、残念ながら家が貧しく(これは良い訳に過ぎないけれど)、高校卒業と同時に大阪の印刷会社に就職する。

印刷会社と言えば町工場を思い出すが、親父の就職先は当時(今でも)日本を代表する印刷の大会社だったが、会社の社会的地位は既に低かった。当時の大阪の代表的企業は松下幸之助さん。明るいナショナル松下電器産業、関西電力、大阪ガス、日本生命、住友生命、etc.。とにかく印刷会社のイメージは高くも無く、事実会社もお世辞にも綺麗とは言えず配属先の営業の仕事も草分け的分野だった。

今でも帳票の印刷と言えば伝票ですかと聞かれる。ハイ、手書きの伝票とプリンター用の連続伝票と言っても胡散臭い顔をされて間に合っていると体良く断られる。その仕事を45年も前に始めたのだから先代の会長の先見の明に今更ながら感銘する。

今、景気が良くないと言われるがあの当時今日の活況を何を見据えて、事業を立ち上げたのだろう?パイオニア精神と言われた言葉をアメリカの先人に学び、製造の技術を貪欲に吸収し日本独自の技術にして今尚、多くの後輩が飯を食える活力を何処で見出していたのだろう?

今、この国の経済は多くの試練の時を迎えて、物造りの活力を後進国から先進国に替わろうとする中国にその座を譲らんとしているが、アメリカに学ぶ事は無いのだろうか?アメリカの経済も日本以上に物造りの活力を失っていると言われるが、そうなのだろうか?

金融の勢いのみをこの国のお間抜けなエコノミストが伝えるけれど、私達が眼を見開いた、否、その前に戦争に負けた原因を爺ちゃん達に思い知らされた、物作り大国の大量生産の力。その活力を我々は本当に学んだのだろうか?そして頂点を極めたその先に見た物はどん底だったのだろうか?ならばそのどん底から這いずり上がらなければならない。

Img_1714 昨日に続いてスイカを食らう。去年までこんなに早く口にする事は無かったのに、味覚が変わったのだろうか?季節の果物では無く季節その物の食い物。

田舎のオイちゃんの家で、この倍の大きさを遠慮せずに食っていたのが、何故か思い出される。このスイカは熊本産。温室栽培だろう。

温室栽培と露地物は何故か味が違う。この切れ端でも300円前後するのはそれだけの価値を見出せるからだろう。その価値を分かる人は少なくても、生産者の思いは変わらない。鍋の横のチンゲン菜と新玉ネギは今日は食えず。鍋で炒めたレタスとお気に入りの蒲鉾で満腹。

他に夕方空腹時、パンを食っていた。相変わらず食い意地は張り時々ベルトが切れる。初めての時はびっくりしたが数回続くとベルトの止め具の弱さに気付く。今迄ベルトの安さにニンマリさせられていたが、留め具の弱さに気付くと今度買う時の視点が見える。

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本日のメーンエベント。桑の葉入りの抹茶です。粉末ステック60袋入り 約6000円 高い。それだけの価値が在るとは思えず、月一回の頒布も溜まり気味。今月も断りの言い訳をしなければいけない。それでも桑の葉は体の整腸と便秘には効果あり。それは実感する。

それならなぜもっと飲まないの?一日2回飲んでいないから。成る程。飲まない時もあるから。飲み難いから。それでもトイレで便がスムーズに排泄されるとニンマリ。快調を実感させられる。この生産者は熊本の八女。それでも生産地は中国。これだけ多くの無農薬のお茶の栽培が日本では難しいとか。本当だろうか?この国の物造りの形も変わらなければならない。

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2010年5月15日 (土)

鮮やかな緑よ明るい緑よ 鳥居を隠し藁谷(わらや)を隠し 薫(かおる)薫 若葉が薫

小学校唱歌のこの歌がぴったりの季節。この歌も意味も分からない世代が多くなる。鮮やかな緑、ああかるい緑が鳥居を隠すか?わらやを隠すか?(わらやと言われても分からんやろう)。わらの家。(と言われても田舎に行かないと藁ぶきの屋根は見れない。)

そんな歌が歌われなくても季節は正にそんな頃。気持ち的にも体力的にもこの時期はアップとダウンが大きいけれど自分に負けるとは話にならない。親父も昨日はなんか疲れて早くから寝ていました。そんな訳でブログの更新も無し。こんな時もあります。

最近レタスの油炒めとマヨネーズの食わず嫌いが嘘の様に感じています。レタスは生でサラダ、マヨネーズはサンドイッチで口にする位でした。これからハマりそう。食の新たな展開が始まります。最近すっかりメタボな体型になりましたが、これからバラエティーに富んだ食事をしないといけない。医食同源。食い物を軽んじると病人になる。言うは易い。行うは難し。

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2010年5月13日 (木)

世界経済回復のシナリオは崩れない?

このブログで書いた事が有るがこの国の経済の低迷を、イギリスの経済エコノミスト編集長からボロクソに言われたのは、そんなに過去の話では無い。その経済誌のおひざ元のイギリスは如何なのだろう?イギリス病と言われて瀕死の重傷だった経済を立て直したのはサッチャー元首相。金融資本の規制緩和。自由競争。それ迄イギリス金融市場から逃げ出していたお足(お金)が集中と滞留を重ねた。それは鉄の宰相と言われた言葉から感じられる印象とは違う。

それに比べるとこのお間抜けなエコノミストの経済感覚と日本経済の分析。ヨーロッパ経済共同体(EU)、共通通貨(ユーロ) 経済圏に参加しないイギリスの思惑が今回のギリシャ危機で親父にも理解が出来る。それでも日本を批判できる先進的な経済施策を見る事は出来ない。

今回のギリシャ危機は一般人には分かりにくい。しかし国の財政が破たんした時、この経済共同体は加盟国が協力して破たんの危機に陥った国を助ける枠組みを作るらしい。それだけの決定でギリシャの財政破たんは解決するのだろうか?解決の方向に向かうと言われている。

株式市場、為替の市場、商品市況、いずれも改善の兆しとか。イギリスのエコノミストとは一線を引いて冷静に判断すれば、この国とアメリカの経済は改善の兆しが見えているのかもしれない。しかし、一番の問題は政治の混迷だろう。

政治団体も経済団体も多くの圧力団体が、利権のみに走り先々も人々の暮らしも社会的責任さえも不明確にしたら、経済回復のシナリオも危ういとしか言えなくもない。親父の拙い(つたない)それでも平均的な市民感情からすれば、景気の回復は暫くは無い。

エコカー減税、エコポイント減税、住宅所得減税、リフォームエコ減税、エコと言えば高額商品が売れたとしても近くのスーパーも親父お気に入りの総菜屋さんも、売り上げは今イチ。個人の懐が膨らまないと景気に回復基調は無いのは昔の話だろうか?

P1000383 桜の幹が枯れている。幹の皮をめくるとポロポロと剥がれる。この部分は完全に枯れている。上に伸びる小枝は違う部分から伸びている。この枯れている部分から新芽が伸びる事は無い。

枯れた幹は切り落とすしかない。この幹も右下まではまだ生きている。其処から伸びる新芽は見る見るうちに小枝に代わる。

空が蒼い。先日まで暑かった日差しも今日はひんやりとしている。今夜は久しぶりに肉を食う。アメリカ産のカルビステーキ用(上バラ)。タレをジャンにする。

野菜と魚、豚肉ばかり食っていると親父も枯れる。そろそろ精神的には枯れても肉体的には生きる力を。不屈のバネを。

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2010年5月12日 (水)

肌寒い一日 ようやく例年の五月の時 風邪を引かずに頑張れ

P1000369 サクランボではありません。味はどんなんかと思って口にしたけれど渋くてあきません。サクランボの樹とは品種が違う。山形の佐藤錦を口に出来るのも少し先だろう。(佐藤錦を口にしたのは何時の日だろう?最近、そんな高級品を口にする事は無い。)

こうして見るとこの樹も若葉の時を迎えて活き活き。活き活きして居ないのは人間様だけだろうか?マリアは寿結婚(出来ちゃった)したし、葉は音沙汰無し。

政治と経済の社会も混迷の時から出口が見通せない。それでもそんな現実にお構い無しの生活もある。マスコミが声高に語るほど現実の社会は明確ではない。それでも間違いなく時代は変わる。

P1000374 これもブルーベリーの実ではありません。このブログで何度も紹介した柊南天(ひいらぎなんてん)の実です。これ程の実を付けてもこの実も口にも出来ません。この実は何の為に実るのか?親父にも分からない程に枝葉は繁殖しています。

この実も果肉を落とすと朽ち果てて実の種のみが繁栄をもたらすのだろうか?そうは思わない。それ程にこの幹は堅く葉先は尖っている。イギリスの選挙結果をこの国のコメンテーターが尤もらしくコメントしている。

若い党首、若いリーダーに期待される事は少なくない。それでも国際経済、国際政治、国際問題は簡単ではない。ギリシャの財政危機は他人事では無い。それでも何も変えられないだろう。

P1000373 何も変えられない?何様だと思っているのか?御批判は御尤もの様でそうではない。その事は日常の出来事に注目すれば良く分かる。この樹は室内の観葉植物ゴムの樹。1枚の大きい葉が黄色く色づき、そして枯れ落ちる。

しかし、全てが枯れ落ちる訳ではない。これが自然の摂理。この法則は何処で誰が決めているのだろう。摩訶不思議とはこの事だろう。人は限られた人生経験の中で限られた価値判断しか出来ない事に気付いていない。

それでも平然として不遜な生き方をしている。いつかは必ずお天道様の怒りに触れなければ気付かないだろう。否、それでもどれだけの人が過ちに気付くだろう?。親父も例外ではない。

今夜の食事は新玉ねぎと出雲チクワ、レタスのマヨネーズ掛け。(親父のマヨネーズは何年振りだろう?…ホント 記憶に無い) 。キャベツ、ぶなしめじのカット野菜の袋も一緒に買ったが流石にこれは明日に回す。レタスのサラダ、新玉ねぎ、トビウオ(あご)のチクワはマヨネーズの意外な美味さに負けたが、レタスのあげとの炒めはGoodでした。

レタスはサラダで食う物と思っていた。マヨネーズは久しく口にした事も無かった。最後の締めはお気に入りのハンバーグ(ニッスイの冷凍)。これは駄目だった。親父が大阪に来て間もない頃、仕事中に阪急8番街(今は無い?)のレストランで口にした時、満足した顔を知らない女性に笑われた事が在る。今は贅沢になったのだろうか?そうではあるまい。

美味い物が喰えなくなっただけだろう?今の侘しい食事がその事を証明している。美味しい物、美味い物を食うにはそれだけの苦労をしなければならない。お手軽に冷凍で美味い物を求めたらアカンやろう。そう言われている。

日本経済に回復の兆し?世界の市場が如何だかこうだか言われても、地域格差と市場の変化は刻刻と変化し、その対応は容易ではない。その事をどれだけ認識しているのだろう。これから益々、金持ちと貧乏人の格差がひどくなる。金持ちは更に豊かにその逆も又、大きいだろう。エコカー減税、エコ家電減税、電気自動車の普及、省エネ何とか、そう言えば市場は附いて来ると思っているのだろう? そうでしょうか?スーパーや百貨店、電化製品の売り場を覗いて見ると現実は言われるほどバラ色ではない。

消費の多様化、高額商品のローンの組み方がレンタルに替わる。これまでの様に買い取りから借りる客が多くなるに違いない。安い車を外国で作って安い車を輸入したとしてもそう簡単には買って貰えない。何故なら維持費を払えない。税金を払えない。そんな人が多くなっている。事故のリスク。事故の対策は何も出来ていない。その事が分かれば簡単に車を自前には出来なくなるだろう。

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2010年5月10日 (月)

駄目でしょうと叱るにはそれなりの知力と体力が必要?そうです。

24節気の立夏の時を過ぎ次は小満。立夏の時と言えばお馬鹿なマスコミのコメンテーターは暦の上では夏かと言われるがそうではない。正確な表現は「夏も近付く八十八夜」だろう。そう立春の時から数えて八十八夜。お茶摘みの頃、夏模様になる頃。そう言った方が良いのだろう。今年の按配(あんばい)は正にそんな感じで昨日は暑い日差しの中に季節が在った。

今日は一転して雨模様。それでもまとまった雨には為らなかった。ぽつぽつと涙を流す程でも無く、それでも傘が無いと雨が気になる感じだった。朝出かける時には邪魔になり持って行かなかった傘も、帰りはちゃっかり置き傘を借用していた。

帰りのバスも電車も空いていたがガラガラでは無く、途中から乗り込む客の先客を無視した相変わらずの無神経な甲高い声が気になる。最近は親父は読書にハマっているが、ヘッドホーンで音楽を聞いて居ないので平常心をぶち切られる。

電車の中で始発の車内は程々に空いていた。親父の指定席は入り口横の角か車両の端。席に座ると共にお気に入りの本を広げる。前のオバはんは水筒の水を飲み食い物を探している。小さい音をガサガサさせているが無視する。斜め前少し離れた席、ホントは親父の指定席に先に座っている女は何故か腰を浮かせて携帯を触っている。この車両は先頭車両で携帯禁止(電源オフ車両)。それも無視。ところが次の停車駅でムードが一転する。

乗り込んだ女一人と男二人の計三人。デカイ。何時の間にか携帯を触って居た女は居ない。席に座る前から盛り上がっている。さり気無く顔を伺うと正気。酒は飲んでいない。最近、この手の非常識は珍しくも無い。日常茶飯事。何故か女の笑い声が耳に障る。

無視すれば良いのに親父の神経がイラつく。難しい漢字が読めない。平常心が保たれてず飛ばしながらの黙読が止まる。気を取り直そうと初めの間は行きつ戻りつしている視線が完全に停止。本を閉じて改めて女と男の顔を視線が追う。ヤバイ。相手は無視しているが親父は咽喉元まで怒りの声がこみ上げている。「うるせー。」「電車の中はお前らだけでは無い」

何時もなら口から飛び出す啖呵(タンカ)が何故か出て来ない。それでも視線に優しさは無い。2、3回眼(がん)を飛ばしても敵もさる者、視線を合わさない。そんな時、声を出すのは決まっていた。その親父が言葉を呑み込んで瞼を閉じる。情けない。相手の勝ち誇った笑い声が耳を突く。その時、親父はさり気無く今朝買った経済新聞をバックの中から取り出し、両手で広げて相手の顔を隠す。舌を出しながらほくそ笑む。「バカタレ」「貧乏人」。親父にも少し任侠の心意気が在れば、マッチョな腕っ節が在れば、小僧の若気があれば、注意が出来たろうか?そんな事を考えていた。

P1000364 仕事場近くの薔薇(ばら) 今年も人の生き方を無視して深紅の中に、自己主張をしています。深紅の色が見る角度で濃さが変わる。眼を動かすか、画像の角度を変えて見て下さい。

人の生き方も人の見方も考え方さえもそんなもんでしょう。絶対的な物は無く変わらない物も無く、それ故に人の生き方は高崎山の猿と同じです。

人は猿の生き方を馬鹿にしても人らしく生きるには知恵と生活力と体力が不可欠である事を、どれだけの人が理解しているのでしょう?

仮に出来たとしても(出来る筈も無くそう思うのも思い上がりに過ぎない)、一時の見方である事に気付かなければならない。

P1000368 雨に濡れる若葉。一気に桜の若葉が伸びて桜木の生命力を感じる。しかし、皮肉な事にこの幹に来年の春、花びらが春の歓びを爆発させる保証が無い。

親父同様、多分、いいや間違いなく今年並みの桜花を広げるのは大丈夫かも。この壮年の桜木を知る吉野さんは、幹からこれ程の新芽と葉っぱが伸びるのは、この樹の栄養状態が良くないからと言われる。

樹齢50年足らずのこの樹は根元に掛けられた除草剤の所為で成長が止まる。昨年、3分の一が枯れた。今も枝先の幹の一部が枯れている。

それでも何とかして花と葉を広げて健気(けなげ)にも生きようとする力。お前にその力は有るのか?有ります。

P1000363 製品の引き取りに来た大型トラックの尻

モンドセレクション最高金賞受賞

霊峰高野山

大師の水 御存じ?知りませんでした。

大阪では売って無いもん。

売ってたとしてもホンマに価値ありまんのか?罰当りの親父に信心の気持無し。アカンでアカン。信じて飲むべし?

親父が高野山に行った時、奥の院手前の川で信者が白装束で入水し、一心不乱に南無大師遍照金剛を唱えていた。

信じて行えばそれ行者なり。親父にそれ位の気概が在れば、人生は変わっていたかもしれない。今からでも遅くない。?

P1000362 夏も近づく八十八夜。この葉はお茶ではないが静岡掛川諏訪原城のお茶は今年も緑の絨毯(じゅうたん)を広げている事だろう。

大雲院のお和尚は亡くなっても広い茶畑のお茶は、摘み取られている事だろう。静岡のお茶。今は口にする事も無い。

親父が京都で下宿住まいだった頃、田舎のお袋が手揉みのお茶と佐伯の城山まんじゅう(ひき茶饅頭)を送って呉れていた。

この時期になるとそんな事を思い出す。

流れに浮かぶ泡(うたかた)は久しく留まりたる試し無し。人の世もかくの如し。(鴨長明)

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2010年5月 9日 (日)

五月は五月晴れの時のイメージが強いけれど、今年は暑くない?

今月の初めの連休中、晴天が続いて天気には恵まれたと天気キャスターが言っていたが、この時期暑いのは何とも不快。流石に空気は乾燥して気持は良いけれど余り暑いとそれもあまり感じない。人間の不遜な生き方は自然の天候まで変えられると思っているのかもしれない。そのくせ一方ではエアコンや車の排気ガスをまき散らし、それが文化的な生き方と勘違いしている。歴史に詳しい中西でも昨日のニュースには違和感を感じなかっただろう。

昨日大阪港から中国上海の万博会場に向けて再建された遣唐使船が出港した。歴史を知らない人なら、何にも違和感がなく受け入れられる、平安の昔の偉業を感じさせられるニュース。しかし、このイベントを企画した人の感覚に作意が感じられる。

親父も司馬遼太郎氏の「空海の風景」を読むまで知らなかったが、当時の船は天候に為す術が無く、遣唐使船の華やかさに比べ命懸けの航海だった事を彼等は知らない。否、知っているのかもしれない。それでも尚遣唐使船の偉業、造船と航海の技術の無い時から命懸けの文化使節を讃えたいのだろうか?そうではない。上海万博の成功を願ってのイベント位にしか思っていないのだろう。

平安の遣唐使は選抜されただけで生きて帰れる保証は無い命懸けの旅だったと言われている。遣唐使以前に遣隋使がありそれより前にも中国からの渡航は行われている。その全てが命懸けで在り安全に玄界灘の波頭を乗り越えた船旅は少ない。奈良時代、天皇の招きで東大寺の僧侶の指導に来た鑑真和上は10年の歳月と度重なる難破の試練を越えている。

この国のおかしい処は命懸けの船旅であっても船の作り方、航海術の確立を計ろうとしない。玄界灘の荒海を何とか安全に航海できるようになったのは室町時代、御朱印船の時と言われる。しかしこの時はこの国の仏教、密教の為では無く金儲け、民間の貿易の為だった。御朱印船。この話は中学の時歴史の時間教えて貰った事が有る。

野球の監督。厳しい先生だったけれど歴史の話は面白かった。遣唐使船は空海が中国(唐)に20年の約束で行った後、次の便は2年後、その後は50年途絶える。空海はその船で帰るがそうでなければその後の高野山の歴史は無い。この前後の司馬氏の小説は本当に面白い。事実は小説より奇なりと言われるが事実が在るから小説が面白いのかもしれない。

このブログは歴史に興味のある中西の為に書いている。次は坂本竜馬暗殺の下手人の真実。その前に休憩です。一服して夕飯です。

夕食済ませました。今夜はお気に入りの巻き寿司。一人の侘しい食事をする様になる迄は考えられない粗食です。でもこの巻き寿司はスーパーの総菜店の物。298円では上等です。侘しいと言えば寿司飯に空気が入っていない事。そうあのふっくらとした何とも言えない口の中に広がる満足感はこの値段では無理でしょう。ホントは稲荷も一緒に口にしたいが此処の稲荷は流石の親父も口にしたくはありません。阪急デパ地下のジャンボと豆いなりはお薦めです。御寿司はネタとシャリが値段と言われる意味を一人になって痛感です。(余談)

食い物の話をすると長くなりそうで昨夜見たテレビのネタ。そう中西に聞いた話の続きです。坂本竜馬の生きた時代の話が昨今、まことしやかに語られたり高知の桂浜とか京都の先斗町は大勢の観光客で賑わっているそうですが、暗殺の悲運を語る人は少ない。

歴史とはそんなもんです。後の世の人がどんなに偉人の様に語ってもそうではない事実は明確ではない。坂本竜馬の何処にその素晴らしさが在るかも知らずに、多くの事が綺麗事の様に語られるのは滑稽でしょう。空海の話もそうでした。何も知らない過去の人がその時代に苦難の道を歩いた先人を断片的に語る事は罰当りでしょう。

でもそれでも何も知らずにヘコヘコと他愛も無い事に、廻りの迷惑顧みずにデカイ声でわめくよりかはマシでしょう。坂本竜馬が剣の達人であった事は某国営放送の大河ドラマの予告編で知りましたが、実際は剣術では身を守れない事を実感してピストルを胸に忍ばせていたのでしょう。それでも闇打ち同様の抜き打ちには為す術もなく眉間と脳天を切られて無念の死を遂げねばならなかった理由は今日でも明確ではありません。

テレビでも暗殺の理由を明確にされていませんでしたが、明治の時代も今日の学識者が声高に叫ぶ程の物ではないのも一面でしょう。武士の世が終わり文明開化の時を迎えたとしても、その時代の寵児にも成れず無念の思いをしながら死んで言った数多くの人の偉人を忘れてはならないのでしょう。同時に生き永らえて維新の歓喜を味わった人の多くも不遇だったのでしょう。結局武士の世が終わり貴族と平民の時代に替わっただけだったのかもしれません。長崎のグラバー邸で取引されたイギリスの武器がこの国の武家社会を崩壊させただけでなく、多くの人の新国家の思いを打ち破ったのでしょう。

そう考えて見ると坂本竜馬の生き方はある意味、悲劇だったのかもしれません。幕府を倒した薩長連合は明治新政府を作りましたがその中に坂本竜馬の名前は有りませんでした。新政府の生みの親は明治の時代の大いなる変革の時を知らずに誰に殺されたのでしょう。

「邪魔者は消せ」アメリカの西部劇の映画にそんなタイトルが在りましたが、明治政府の成立は古き時代の関わりを断つ事から始まったのでしょう。歴史上は暗殺の下手人は新鮮組の配下の下級武士になっていますが、君は今でもその事を信じていますか?

この歴史の汚点は昭和の初めの軍国主義に繋がり、軍部青年将校の問答無用の暴走に繋がったのでしょう。表面上は平和な今日でも日常茶飯事に弱い者いじめの風潮は変わりません。この時代を生き抜くには冗談で無く格闘家精神と肉体が必要なのかもしれません。

では又読んで下さい。御朱印船の話は非常に面白い話ですが、この国の国内の治安が乱れに乱れた室町の世の末期、東シナ海は日本の海賊の天下でした。この海賊は中国、朝鮮では倭寇と呼ばれ海の盗賊でした。彼等は盗人。自分達は堅気の商人。その印を家康が天下統一の後、与えたのも鎖国のイメージの強い江戸時代とは何たる皮肉でしょう。

この話はもう少し勉強してうんちくを語る事と致しましょう。では又です。金曜日行きます。

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2010年5月 8日 (土)

五月の空に泳ぐ鯉 五月の空に結ばれる愛 誓いの言葉を忘れるな

親父の結婚式は今から何年前だろう。親父29歳、おっかあ23歳だったから今から37年前。おっかあは独身と同じ年を親父と過ごして46の若さで鬼籍の人となった。あれから14年の歳月が流れても一日として一緒に過ごした時を忘れた事は無い。

こんな親父を見て気が強くなった晩年のおっかあは何時も馬鹿にしていたが、今でもその気持ちは変わらないだろう。言うまでも無く光陰矢の如し、英語で言うと時は矢の如しです。特に引き寄せられた結びつきは別離の時もあっと思う間もありません。

どんなに同じ屋根の下に住み同じ物を食らい同じ空気を吸っていても、所詮、愛する人は他人です。(良かった。こんな事を結婚式場で言っていたらつまみ出される。)親父の最大の間違いは愛する事しか出来なかったのではなく、自分の思いの押し付けだったのでしょう。

人が人を思いやるのは最低の条件で、何時迄も幸せの時を重ねる秘訣は、我儘(わがまま)な思いを捨てる事でしょう。君にどれだけの優しさが有ったとしてもそんな思いは一時です。最近優しい男が少なくありませんが、本当の優しさとは労わり(いたわり)で在り愛情の押し付けではありません。言われるまでも無い事、しかしその事を長い間続ける事は大変です。

子供も出来て何時迄も新婚のムードではなく生活に追われて髪を振りみだす時、そんな姿を見ても手を差し伸べれなければならないのです。結婚式では多くの禁句が有り多くの人が目出度い言葉しか掛けて呉れませんが、本当はそんなに甘くはありません。親父の言葉を忘れないで下さい。噛みしめて下さい。愛の歓びの時は短く嘆きの切なさの方がどれだけ多いか分からない。でもその時でも優しい言葉を忘れないで下さい。お幸せに。

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2010年5月 6日 (木)

暑い日も今日で一段落 明日は一雨 少しは涼しくなる?

P1000362 山茶花(さざんか)の新芽。この花は昨年末、長い間眼を楽しませてくれたが、山茶花の名前の由来が漢字を読むと分かる。これから新茶のシーズンとなるがお茶の感じはする。しかし、見た目と味は全然だろう。良く見ると見た目も違うけどね。5月はお茶の時。静岡の茶畑は今年も摘み取りは順調だろうか?

この新芽を見ながら感じる事は、世代交代。柏(かしわ)の葉は枯れる事は無いと言われるが、この葉も全く同様。

古い葉が枯れる前に新緑の芽が出ている。人の世は如何だろう?何時までも年寄りがのさばり、若い人が育たない。

何処かの知事が「若者に反骨の精神が無い」と言い放ち、70過ぎの政治家が「立ち上がれ日本」と叫んでも山茶花に笑われている。

P1000357 桜餅の葉っぱはどうして取っているのだろう。桜の木から取っている?間違いない。それでも桜餅専用の大きい葉っぱ。イヤイヤ、これ位の大きさで大量に確保出来れば充分だろう。

最近は葉っぱに味が付いて無くて、食えない葉もあるが・・・。

この間までこの葉は無かった。枯れる一方で今年もこれだけの生命力が繁殖している。親父にこれだけの命が残っているのだろうか?

久しぶりの仕事の帰り、宝塚の階段で息が切れていた。ガソリンが切れている。スカイラインに入れていたハイオク満タンの勢いは何処に行ったのだろう?

P1000358 それではこれで如何だ。加藤登紀子の歌に百万本のバラを何とかとあるが、このバラは一本で生意気に笑っている。

一本ではアカンやろうと思いながらも、この深紅は一見の価値は在りそう。親父のバラの思いもも少し情熱が無いと同じかもしれない。

バラに笑われている。ちきしょう。

それでもこれだけの色は上等です。親父にはとてもマネの出来ない色かもしれない。しかし、負け惜しみでなく何か躍動感が無い。

フン、マネが出来ないと言いながらへらず口だけは忘れていない。

そうです。色気が有っても躍動感が無いと引きつける物が無い。あんたは寝ている。寝るな。下向くな。上 ↑ ウエ

P1000360 これも早春の時紹介したモクレンの樹。あの時の紫の大きな花びらが落ち、こんなに新緑の葉が茂りました。

新緑の時、むせ返る様な緑の中でシバ刈り(タキギ)をしていた幼い日々は、この爽やかな緑の中には無い。

暑いとか寒いとか言った処で、都会で生きていると自然の息吹を感じる事は少ない。そのくせ文句は言っている。

去年は砂浜でメタボな腹を晒す(さらす)事は無かったが、今年は如何だろう?新緑の景色を見ながら、馬鹿な事を考えていた。

これからキャベツ&ぶなしめじと豚肉細切れ(300g)の炒めをします。残さないと・・・。

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お休みの人もお仕事の人もお疲れ様でした。親父は明日から久々のお仕事です

テレビを見るとUターンラッシュの景色ばかり。高速道路の渋滞も暫くの間はお目に掛れないだろう。観光庁(こんな役所は要らないと思うが・・・。ちなみに長官は前大分トリニータの体たらくの代表)は連休の分散化を検討とか。そんな事を役所が何で検討するのか?

役人の考える事はこんな事?税金の無駄使いだろう。今、中国の上海で開催されている万博もある意味同じだろう。この国でも今から40年前に開催されたあのイベントも一時の幻影。「人類の進歩と調和」と言われたが、その総括は如何だったのだろう。

親父は田舎から出て来た両親を伊勢神宮と鳥羽、京都観光に親孝行の真似事が出来たがその程度の事だった気がする。これから仕事と生活の保証は求められても休日まで役所のお世話になる事は無い。休みの時でも休めない人、生活の為に働いて居る人がいる事を忘れてはならない。政府の御役人にはその程度の事さえも理解出来ないのだろう。

ワールドサッカーの日本代表の戦力が問題になっているが、この国の世界を見る眼はその事を見ても分かる。レベルの違い。体力、運動能力の違い、サッカーに取り組むハングーな思いの違い。いずれを考えても「日本、チャッチャッチャ」。お間抜けだろう。

偉そうな事を言う親父にはボールをける事すらできない。その程度の事しか出来ない親父でも開催国の治安の悪さは大丈夫と首を重ねる。それに便乗の悪い奴。旅行代金の詐欺。スイス旅行は大丈夫でしょうか?

何れにしても明日からは又、新たな日々が始まる。体に気をつけて。今日は子供の日。近くの銭湯は菖蒲(しょうぶ)湯でした。連日の暑さで夕方の一番混雑の時。こんな時間に行く事の無いのに先日不快な思いをした酔っ払いに合う。何たる事。流石に今日は正気。バカタレ。

菖蒲湯の湯船は空いていた。湯船の淵にアホが二人座っていたが無視。前を隠さず堂々と入湯。流石肌辺りがすっきりする。気の所為だろう。体すっきり。家に帰るとベッドの上で大の字で寝ていた。ではお休みです。

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2010年5月 4日 (火)

連休4日目 休みもあと1日 暑くなり急に匂いがきつくなる

今日は暑い。昨日の高野山の帰り大阪梅田の何時ものカレー屋でカレーを少し窮屈な思いで食い、君が乗ったバスターミナルの横の階段を上がり、自分だけのお土産を買い電車に乗った時、汗をかいていた。高野の山上では流石に汗はかかなかったが、日差しは強く風景は初夏だった。季節外れの暑さは明日まで続き、近くで完成した家の下水に流れ出た汚水の乾いた臭いが部屋の中までしている。何たる事だろう。肩まで凝って来る。

天地の恵み、天から流れ落ちる大雨で排水路の不快な匂いを、洗い流して呉れる時はまだ大分先の事だろう。それまでは久々に消臭剤が要るかもね。そんなお休みの時、昨日行った高野の地を地図で探して見る。

大阪南の難波から南南東に南下し河内長野を経て、和泉山地をトンネルで抜け橋本に至る。其処から一気に山中に分け入り南海高野線の終点極楽橋。そこからケーブルで高野山口に至る。しかし、此処が目的の地では無い。此処からバスで約2キロ、そこが目的の高野山町。女人堂、金剛峯寺は近いが弘法大師、空海がいる奥の院は此処からバスで暫く掛る。それでも遠くは無い。親父は帰りのバスに乗った時、一人がけの席で足を捻る(ひねる)。それでも何とも無かったのはお参りのお陰だったのだろうか?そうではあるまい。この罰当りの親父にそんな御利益が(ごりやく)有る筈も無い。まだまだ足腰はしっかりしているね? そんな事を考え安堵の思いをしていた。(ホント、はずみは馬鹿にならないよ)

空海の平安の時代、こんな山奥に密教の聖地を開いた目的は一体何だったのだろう?それは司馬氏の「空海の風景」(上巻)で説明している。しかし、その事を実感するにはこの観光地化されたルートでは分からないだろう。先人の大いなる思い。特に平安の昔のこの地を求めた鬼才、天才の思いは今日の凡人に知る由も無い。

帰りのバスで足の捻りに脂汗も流さず安堵の思いもつかの間、バスは街中で渋滞にハマる。2キロ足らずの道は途中乗車の人と車で中々進まない。久しぶりに鈴なりの乗車の光景を目の当たりにする。親父は途中空いて居る時に席を前に移して正解。

何とか街中を抜けるとその先はバス専用の曲りくねった道。バスはスイスイと進む。渋滞の中で歩いた方が早いと思っていた思いが間違いであった事に苦笑する。しかし、この思いはロープウエーに乗り換え高野線のホームで乗車の電車を待つ中に逆転する。

来る時、特急の指定席に乗れず何の説明も無く、急行と普通の乗り換えに案内されたのか分かる。ホームに溢れる人の波。電車の数は少なく大勢の人を捌き切れていない。来る時見れなかった急峻の車窓の道を見たくて窓際に立つ。良く見るとホームで後ろに並んでブツブツ言っていた人が、ちゃっかり席を確保している。それでもきしみながら鉄路をゆっくり下る車窓の外の景色に眼を見張る。空海はこの道を歩いたのだと思うと凄いとしか言いようが無い。シーズンオフの時、特急の指定席を手にするか、高野から竜神に通じるこのスカイラインを踏破しなければならない。どれだけの時間が掛るだろう。まず歩きは無理だな。

橋本から高野の極楽橋迄の道。この鉄路が完成した時、高野詣での道はそれ迄と比べ物にならない想いを参拝客に与えただろう。それだけでなくこの終点からロープウェイの完成。信者の歓喜の思いを今日の観光客には理解の術が無い。その事が分かっただけ貴重だったかも。これからの生き方は是までの罰当りの生き方を見つめ直す時。

本当に有意義な高野の旅でした。話のレベルは全く違うが是が本当の百聞は一見にしかずだろう。空海が自分の後継者に指名した最澄が、密教の修行を比叡山の座主の儘、出来なかった訳が分かる?それだけの時間が無かったのだろう。学ぶ事は全てを無にして受け入れる事。それが出来なければ教える事もできない。中途半端な気持ちでは学ぶ事が出来ないと言う事だろう。

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2010年5月 3日 (月)

岐阜 荘川には行けず。予定変更,高野山に登る。

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弘法大師像に参拝者がひしゃくで水を掛けている。その飛沫(しぶき)が捕えられている。

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奥の院に向かう参道。多くの廟と杉の大木がある。家康、信長、何故か秀吉はない。彼は太閤の名で貧乏農民の倅から天下人になるが、その後の生き方は最悪。側室淀が生んだ幼子の所為で人を育てられず、多くの後継者を惨殺する。朝鮮出兵も歴史に汚点。この大木の右側にその過ちが刻まれている。しかし、その事を見上げる人も無い。

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杉の大木は見ながら奥の院に向かう。多くの善男善女に出会うが殆どの人は上を見ていない。雑談しながら平穏の時を過ごせる幸いを日差しも歓迎しているのだろう。太陽の日差しで杉の幹が欠けるのは珍しい。この時刻お昼過ぎ、昼飯に買ったイナリはまだ食っていない。

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偶々(たまたま)参拝帰りの人波が途絶えた処でイナリを取り出す。空海がこの高野の地に真言密教の道場を開いたのは平安の時。それからどれだけの歳が流れたのだろう。そして人々の心はどれだけ開かれたのだろう?皮肉な事に空海が生きていた頃、高野の寺院は未開の土地だった。空海からその教えを引き継いだ弟子達も50年足らずで、この地は全く違う教えが正当化される。その検証はなされたのだろうか?短い時間でその話を聞く機会は無い。これから学習しなければならない。イナリを食いながらそう思う。この罰当り。

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苔蒸している杉の大木。どれ位の年輪を重ねているのだろう。白いプレートは大樹の証し。

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この大木も強風に倒される事も無いのだろうか?樹の支えは自然の力と思惑だろうか?空洞が開けた処に人の思いが有る。永い永い人のささやかな思い。心に迷いが生じた時、心の鎧(よろい)を外して先人の思いを訪ねて見るのも良いかも。この樹の力は一体何なのだろう?

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樹の間に光が差し込んでいる。長い長い混迷の時を切り開くのは意外に近いかもしれない。

この高野の地を開いた空海も意外に、今日の人が想う弘法大師、南無大師遍照金剛の印象は薄い。真言密教の教えは意外に理解されていない。教えが難しいからなのだろか?そうではない。人の生き方が濃密で無いからだろう。この国の一部の人を除いて。

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司馬遼太郎氏の文学碑。格言う親父も「空海の風景」を読む迄は何も知る由も無かったのだから。尤もらしい事を言う資格はありはしない。連休の中日。多くの人波の中で何も考えずに歩いていた。帰りは流石に多くの人波にうんざり。大阪の南のターミナル難波の替わり様に眼を見張る。それでも南海電車の車両の古さは変わらず。高野の道は遠かった。

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此処の左が奥の院。弘法大師が祭られている。ここから先は撮影禁止です。

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南海電車高野口終点からケーブルで上がる。そのバスターミナルからバス専用道路の道が有る。高野の街は意外に高い。この空中都市で4000人近くの人が生活していると言われる。連休の時で無い静かな時、心通じる人と再訪して見るのも一考かもしれない。

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帰りのケーブル。右に移り込んでいる彼女はスイスの旅の事を語っていた。彼氏は34.好青年だった。お幸せに。

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南海難波駅。コンコースの上に広がるビル。この奥に難波球場跡に建設されたショッピングモールと高層ビルがある。それでも親父が18~22の時彷徨った面影は無い。

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2010年5月 2日 (日)

五月の幕が上がる 

P1000353 桜の開花の時は過ぎ、新緑の頃となる。この画像はすでに公開しているので新鮮味は無いが若葉の大きさが光る。

眼に青葉、山ホトトギス、初ガツオ。

この句は有名だけれど作者は不詳?そんな季節になりましたなあと挨拶の様に口にしても知らない事も少なくない。

それでもこの枝は葉の大きさに比べて、脆い(もろい)。軽く叩かれただけでも落ちてしまう。

相撲の下がりの様な桜の茎が完全に落ちた時柔らかい桜の枝はしなやかになる。其処までの時を重ねなければならない。

P1000354 この楓(かえで)は野村紅葉。新緑の頃にこの色は珍しい。従って江戸の昔からこの樹木が観賞用として重宝されたのだろう。枝葉の間に五月の空が見える。

今年の連休は天気に恵まれる。高速道路は渋滞の距離が延びている。皮肉な事に明日からはUターンラッシュになる。

親父の連休は後3日。今年は荘川の桜が見れるかも。そんな準備が出来る。岐阜羽島から御母衣(みほろ)ダム湖畔迄の道は遠い。

このダムが出来た時、湖底に沈む予定の桜の大木が多くの人の思いで、移植される。桜の大木を重機を使わずに。

P1000355 これも同じ野村紅葉。光線の加減で全く別の樹に見える。この色が五月の色だろう。日々の出来事も同じかもしれない。

味方により景色が変わる。景色だけなら頭を抱えるだっけで済むが、世の中の事はそうはいかない。

それでも多くの事に関心が無くても生きて行けるのはどうしてだろう?。一々、気にしていたら生きて行けないからだろうか?そうではないだろう?

別に庭木を見たり公園や山の風景に眼を凝らさなくても、自分の狭い視野で物事を判断しても何も困らないからだろう。

今日、不毛の論議の中で多くの人は精神の枠の中で自分を内面的に突き詰めずに、適当にあしらっているのだろう。

その反面、自分の本心は大事にしている。当然の事とは言えそれは最大の不幸にして幸福かもしれない。

樹の先に未来の都市が見える。5月の風は爽やかに頬を擽(くすぐ)りながら、駆け抜けて行く。

司馬遼太郎氏は21世紀を生きる子供達にメッセージを残しているが、高齢化社会を生き抜く術は教えていない。

これからどれだけの5月の時が巡って来るのか分からないけれど未来の都市に足を踏み入れなければならない。

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