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2010年4月 9日 (金)

花曇りの時 花冷えの時 花壇にも春の時

P1000318 駅前の花壇。これもボランティア(奉仕)の成果では無い。役所の公園課の下請けの仕事。町の美化を計るには目に見えない労力とお金が掛る。

でもその証を実感する人は少ない。それが奉仕活動、自主的活動では無く、行政の仕事として組み込まれているからである。それにどれ位のお金が掛り、誰の為の物なのか、本来の目的は蔑(ないがしろ)にされている。

これからは自分達の住む町は自分達も参加をして、意見と声を出しながら築き上げる事が求められている。

それでもその旗振りと自活の道は実に厳しい。その事が分からない人がほとんどであり、生活保護を求めても奉仕の心は中々出ては来ない。

今日はお休み。内科の掛りつけの医者に血圧と高血糖を下げる3週間分の薬を処方してもらう。血圧は確実に下がっているがこれは体質改善では無い?薬のお陰。その事は間違いない。高血糖、高脂肪、メタボ体質は何も変わっていない。食事の内容は変わっているが量が減らないと体重は改善しない。それでも着実に薬の成果は出ている。

今日は午後から昔の恋人に会いに行きます。大阪に来て12年。その時巡り合った公園の桜。幹のどてっぱらに大きな空洞がありそれでもどっこい生きていた。今年はどんな姿を見せて呉れるだろう。それでも間違いなく朽ち果てる時は遠くない。

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やあ久し振り開花の時は盛りを過ぎていたが今年も変わらず開花の時を迎えていた。それでも今年が最後かもしれない。幹を撫でながらそんな言葉を交わしていた。初めて言葉を交わした12年前の時と比べて枝先が枯れている。やむを得ないよね。無理すんな。そんな言葉を掛けていた。

Img_1548 そうだよね。幹の途中のダメージは大きい。御年を重ねてまだまだ生命力は衰えて無いと言った処で、この姿を見ると覚悟が必要だろう。

雨風に負けず枝葉を伸ばして花の盛りを見せて呉れたけれど、来年再びの輝きは無いかもしれない。お疲れ様。又、どこかでお会いしましょう。

Img_1544 物造りの空洞化ではない。桜の空洞化。これでこの樹は生きている。親父の挫折の思いを叩きのめして呉れたのは13年前の秋だった。

あれから干支も一周した。親父の生き方はどれ程に変わったのだろう?君に負けない生き方が出来ただろうか?

Img_1549 親父さん、人の生き方は千差万別。波乱万丈。自分の思う様にはならない。親父さんとの出会いは一期一会。季節の移ろいの中で又、お会いしましょう。

桜の老木の生きた歳月は親父のそれを大きく越えている。それはこの逞しい幹を触ると良く分かる。君に教えられた生き方を親父は忘れはしない。

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日は沈みそうしてまた昇る。五月山の334の階段の先には鳥居があるがその横の桜。反対の見晴らし台には若い女性が腰をおろしていたが、フラフラしながら登って来た親父を開花の時を過ぎた桜花が歓迎していた。この花も時を少なくして若葉に変わる。その時、どんな思いで眺めているのだろう。久しぶりの階段は息が切れて一気に登れず。がっくし。

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上の展望台 前の広場の桜 満開の時は過ぎているがそれでもこうして見るとGoodです。

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これは展望台近くの山桜。空の青さに負けていない幹の伸びと花の大きさ。4月の時。輝きの時。これが本当の日本の春の景色かも?ビューティフル。ワンダフル。美しい。

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この樹も凄いよね。左の幹は枯れても右の幹から逞しく新しい命が花を咲かせている。この樹は近くをドライブウェイが走っている。排気ガスのせいで枯れたのではない。寿命だろう。

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公園の桜。満開の時は過ぎている。花吹雪までは言っていない。散り始めか?

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花吹雪の時は近い。花が散ると若葉の時は近い。暑くなる。暑くなるとこの公園で空を見上げる事も少なくなる。駅の近くでこれ程の広場は此処だけ。土のグランドを歩くと静岡掛川の家の近くに在った小学校のグラウンドを思い出す。過ぎし日の思いではこの花の様に果敢ない。それでも土の上の感触は足の裏には心地よい。

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