雨降って地固まる?大地の鼓動を知らない癖に・・・
失われた10年と言う言葉が死語になっている。いやそれよりも政治や経済、日常生活も殆どの人にとって関係無い事なのかもしてない。実際は大いに関係が在っても日々の余裕の無い生活に追われて、関心すら持てないのだろう。 そうだろうか?それもなんか違う気がする。
空海の様に人として如何生きるか、宗教人としてではなく宇宙の真理を求めなくても、何気なく電車やバスの中で無心でいると、いきなり穏やかな心が突き動かされる。瞑目から眼を開けると大概馬鹿がいる。でかい声でしゃべる。デカイ音を立てる。何かを人の眼を無視してやろうとしている。何時からこんなに騒動しい日常になったのだろう。そうかと思うと心地良い位静かな時も在る。それでもそんな時は長くない。大概、馬鹿が登場する。そして我が物顔の言動と相成る。そんな時、昔は決まって強面(こわもて)の兄ちゃんが黙らせていた。
今日、雨降って地固まるなんて言葉も完全に死語となる。諍い(いさかい)は些細な事でももめ事になるので多くの賢人は関わりを否定する。月光仮面(古い)でもあるまいし今日日(きょうび)正義の味方は居ない。大体、正義も悪も判断基準がバラバラで普遍的な価値基準が無くなっている。今、年を重ねて平然と生きるのは容易な事では無い。その事を否定するには相当の迫力と生活力と体力、知力を必要とする。最近その事を痛感する。
失われた10年とはこの国の経済発展がバブル(あわ)の様に弾けて成長が止まり生活格差が広がった2000年までの事。しかし、今は2010年だろう。それではこの10年は何と言うのだろう?正確には失われた20年?まさか。否、それ以上かも。親父が大阪にカムバック?して12年。その前の8年が加算される。この空白の時をこれからも埋められる事は無いだろう。
しかし、その事が最近になって強く心に響くのは何かが起動しているのかもしれない。司馬遼太郎が書いて大河ドラマになった「坂の上の雲」の下調べに熱中していた頃、師は空海全集を読んでいたと言われる。この天才の類稀ない(比べ様の無い稀な)論理は難しくて分からないが、親父の眠っていた探究心に火をつけた事は間違いない。
これからこの国は大きく変わる。明治維新の時は知らないが平成の改革となる事は間違いない。信じられない?イヤイヤ、信じる者は救われる。その事がこれから眼の前に現れた時、説得力のある言葉で語られるに違いない。人は変わる。変わらないのは変革を志さない貧困さだろう。心の貧しさが希望に変わる時、冷たい雨も頬伝う熱き涙と変わるのだろう。
空海、最澄が生きたのは平安の昔。その時から富める者と貧しき人の生活は歴然とし、藤原氏で無ければ人に在らじと言われた。人が人らしい生活を平然と時の権力者に踏みにじられ、多くの人は惨めに生を終えた。現代人の多くはそれも知らない。死ぬまで知る事も無く日常の些細も無い事に嘆き悲しむのだろう。その事を思うと少しは生き方が変わる。
否、変わらなければいかんでしょう。青いと言われてもいずれ老いそして朽ち果てる。その事を考えれば残された歳月を貪欲に生きる。人はお馬鹿ではいけない。間抜けでも行けない。賢人でも常識が無くても良い。思いのまま破天荒に生きる。そんな一面もあって良い。但しアホになるな。関西でアホとは戒めの言葉。その理解さえできない人も少なくない。
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