デフレ脱却 デフレって何?インフレは何と無く分かっても・・・
親父はこの言葉の意味が分かってこのブログを書いている。今一生懸命に読んでいる司馬遼太郎の空海の風景は本当に難しい。司馬遼太郎はどんな思いでこの本を書いたのだろう。そう、空海の風景の小説。この本は一度、手にして下さい。本当に難しい。漢字が読めない。意味が分からない。文節の言葉が分からない。親父が一番理解出来なかった空海と最澄。比叡山と高野山。この大霊場がこの国のどれだけ多くの人に多くの信仰と祈りの思いを与えたのか、今となってはそんな思いさえも無くして平然と生きている。
経済の問題、政治の問題、生き方其の物の問題、人を愛する事、人を信じる事、人を支え支えられる生き方、そんな多くの生きる糧が平然と踏みにじられても生きて行く意味。そんな事を口にしても誰も相手にしない。否、出来ないのだろう。普通の人は普通にしか生きる事が出来ない。普通の人が在る日、突然おかしくなっても何も出来ない事にその時に為らないと気付く事はない。その意味でこの本の意味、意義が在るのか分からない。
親父が文庫本からハード(新刊本)に替えたので文庫本が不要になり、それをあげた中西君も匙(さじ)を投げただろうか、それ程にこの本は難しい。(読めない)。親父は分からない所を飛ばし読みしているのでこの上巻も半分迄来た。でも言葉の意味はあと数回、読み直さないと分からないだろう。それでも空海の生きた時代と彼自身の生き方が難しい漢字と言葉の一部から、心を揺さぶられている。空海と最澄が遣唐使となり中国に行ったのは当人の希望であり、目的が有った事を知る。目的意識。今でも求められている事が昔から行われていたとしたら、現代人も後世の笑いものかもしれない。その程度の物だよ。
この本の感想は未だその程度しか語れないが、中西は如何だろう?今度行った時には間違いなく親父は完読しているけれど、何も語る事はないかもしれない。そんな事はない?そうかも。間違いなく独断と偏見に満ちた言葉で君に多くを語るに違いない。
それでも笑いながら語り合える空間を心良しとするのは何か、時代と生き方を超越した面白さが有るのかもしれない。人が人に出来る事は多くの事が有るけれど、一番の喜びは語り合える事かも知れない。多くの事を知らないアカの他人が口角から泡を飛ばしながら、語り合える事、それが本当は最高のもてなしに違いない。
それでは本題。デフレとはインフレの反対。今の経済状態を指すらしい。お金が回らない。何処に?消費者。消費者とは誰。消費をする人。物を買う人。でもその区分もおかしいでしょう?物を買う人と言っても様々。お金持ちもそうで無い人も。お金の無い人でも生活のレベルに応じた金が要る。消費者と一括りせずに物が買える人、買えない人と分けた方が分かり易い。そうでもないらしい。所得が低い人、所得が無い人が多くなりお金廻りが悪い。この方が分かり易い?
それではこれで如何だ。デフレは需要が供給を下回り物の値段が下がる。フンフン。物の値段が下がると有り難い。結構な話。これが結構で無い。物の値段が下がると企業の利益を確保するためにコストを下げなければならない。親父達が現役の頃もそれが企業の利益確保の生命線だったが給料迄を下げたらアウト。それが背に腹を変えられなくなり労働者の手取りが下がる様になり購買力が落ちる。これが長く続けば消費の勢いは下がる。これがデフレ。景気が低迷し政治に不満と不信が重なる。だから政府はデフレの克服を口にする。
でもこの景気の低迷は長い。景気の回復が声高に叫ばれ戦後最長の景気回復と言われた時は数年前の事だった。しかし、それは景気の一部分、実態は働く人の生活は厳しい。その時が10年も続けば完全に所得格差は定着し、全体の所得の伸びは期待できない。
今はそんな処だろう。そしてこの状況は誰が何と言おうと間違いなく、ずーと続く。何年?経済には大きな波が有るからこのままと言う事はないだろうが?間違いなく貧乏人は何かを変えなければずーと貧しく、隣のおっさんの様に自炊生活しかないだろう。それも又、良きかな?哀れじゃのう。クゥイ、クゥイ、クゥイ。空海の様に乞食僧になっても求道者になるしかないのだろうか?それは違う。空海はその事に何の躊躇いの(ためらいの)思いも無かったと言われている。何故、だったのだろう。?これからその事が分かる?
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