棘(いばら)の道 でもその先に見える物
いばらの道ってどんな道?困難の道?イヤイヤそんな生やさしい物ではなく喘ぎ(あえぎ)ながら絶望感に身を震わせながら、安らぎの時と場所さえも手にする事も無くあても無く彷徨う(さまよう)。そんな道が棘の道?そうだとしたらキリストは十字架に磔(はりつけ)にされてもその先に見える安らぎの時に、歓びを感じたのだろうか?
キリスト教徒で無い親父に分かる道理も知識も無い。今、司馬遼太郎の空海の風景を読みながらそんな事を考えている。何でそんなアホな事を考えるのか?この本を読むと不思議にそんな感覚になる。司馬はどんなつもりでこの小説を書いたのか、知る由も無いが難しい。
最初手にした文庫本の所為かと思ったがそうではない。空海が見ただろう風景が途方も無く難しく、何故、恵まれた行政官の道の勉学を捨て乞食僧になったのかが分からない。空海が生きた時代は平安の初期、同じようで全く違う生き方を鎌倉の時代に西行法師がしている。
今も昔も官僚、行政、宗教のエリートになるには優れた学力と経済力が必要なのだろう。空海の生まれは四国の讃岐、家柄は佐伯氏。(親父の高校が九州、大分、佐伯市)。関係無いけどその事もいずれ分かる。今、新刊本のサイズに替えてやっと144ページ。
未だ、空海の生き方が見えて来ない。それでも空海の偉業は四国八十八ヶ所めぐりで分かる。人の生き方、人の在るべき姿を差し示している。これからその事を読み取らなければならない。親父の生き方が段々見えて来た。そうでなければ何の為に苦労したのか分からない。
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