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2010年2月 2日 (火)

久しぶりに山の入口迄行く そこまでがやっと とほほ あー

Img_1345 城址公園はお休み。五月山、一番短いコースに挑戦。しかしこのコースは石段334.足腰が丈夫でないと歩けない。上り詰めると展望台

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街並みが暗くなっているがこれはカメラのマジック。六甲の山並みの夕日が明るい為。左下を流れる川が猪名川。六甲の山並みの上に沈む夕日。山並みが左に落ち込む方向が神戸の街並み。中間左端は大阪と神戸の中間。昔はすごい見通しだったろう。ここで石段に座り下界を見ていると多くの人の喜びと悲しみが胸を突き上げる。日は沈み日は又登る。

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本当はここから山中に入る。現在地はこの地図の中央少し左側。大一のマークの有る所。それが今日はここまで。ふくらはぎが痛い。運動不足を嘆く事はないが今迄の活力が無い。足腰が弱ると歩けなる。現代人はその前に自らの意思で歩く力を無くしているが、親父の場合、そんな勿体ない事は出来ない。ふくらはぎの弾力性を取り戻し何時までもこの桜木の活力を失ってはいけない。

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昨年も紹介したこの大木。幹の中間にこんな大きな穴が空いてもどっこい生きている。この画像では良く分からないが幹の上も枯れている。その横から伸びた枝葉が大きくなり幹の替わりをして今年も桜花を咲かせる。幹の中は腐っても外側の樹枝に樹根が伸びている。何れ枯れる桜木の生命力に驚嘆の思いを重ねていたから、親父も生き延びられたのかもしれない。人間の生命力はこの樹の様に無限ではないが、ふくらはぎの痛みは面目ない。

老木を撫で回しながら樹皮の固さに悦びの思いを重ねていた。今年も密やかに(ひそやか)に輝きの空が見れる。桜花の花弁はささやかでも親父の五体に歓喜の思いが浸み込むだろう。どんなに華やかな桜花の競演より勝るとも劣らない時も遠くない。後、2月足らず。

その時はどんな思いでこの老木を見上げて居る事だろう。願わくば5キロの減量。ふくらはぎを擦らなくても(さすらなくても)歩ける体に為らなければならない。

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