明日から師走 風が無いから暖かいけれど木枯らしの時も近い
近くの早苗の森。秋の深まりと共に輝きがクライマックスに近付いている。次の木枯らしで一気に黄金の葉っぱを散らすのだろか?その時が本当のクライマックスだろう。
残念ながらその時に立ち会えないかも。今は切られてしまったが故郷の小学校の思い出の銀杏を思い出す。
故郷は遠きに在りて思うもの。近くの住まいは何だろう?早い物でもうすぐ8年。仮の住まいとは言えなくなっている。
これは傑作の一枚と思いきや、南天の赤が銀杏の黄色に負けている。凄いよね銀杏のパワー。どんなもんだと自己主張をされても返す言葉も無い。
この南天もその大きさに圧倒される。行く春を惜しむ言葉は耳にするが、行く秋をこれだけ噛みしめて呉れる親父も少ないだろう。自慢している?そうだに。
これでは感動が無い?それではつぎ行きますか?
どうだ。これなら南天の赤色も映えている。行く見ると蜘蛛の巣が銀杏の葉の下に在り蜘蛛もいるが、この絵の中で見つけるには、草木の輝きが強くて見えない
まあ、それも有りかな?
早苗の森の参道の楓(かえで)。紅葉が(もみじが)綺麗に秋を主張している。でも明日からは師走。今年は暖冬と言われているが、これも温暖化の一因かな。
今年は寒暖の差が大きくてもみじも綺麗とか。それでもそれを支えている幹を見る人は少ない。
何も人出の多い有名神社、仏閣迄行かなくても綺麗な景色が見れる。唯、違うのはスケールの大きさ、歴史の違いだろう?それでも負けていない。
見る人も無き紅の色はもうすぐ葉を落とし、寒風の空に何を見せて呉れるのだろう?分かりません。
何事も見方を変えれば違う姿が見えて来る。最近、人の育て方も叱るより褒める事が主流とか。
褒める事はお互いの心を和ませるが褒め殺しも有る事を知らない。余りに自己主張も感心しないが、多くを語らなくても見えて来る感性は、無くなったのだろうか?ああ。
右に見える公園にも子供の姿は無い。これからのこの国を支える人は何処にいるのだろう?年寄りが健康で文化的な生活が出来る保証は、既に何処にもない。
静かな初冬の風景に音が無かった
朽ちた幹の上に紅葉の小枝が伸びる。暗い絶望の先にこれ程の輝きがある感動は、見る人の心を揺さぶる。
人も樹も永遠の生命力は無いからその一時がこれ程に輝くのだろう。その思いをどんなに否定しても、次の世代に語り継ぐ優しさを持ち合わせているかと問われている。
空が見える。輝きの空が。紅葉の北アルプスに今年も足を踏み入れる事は出来なかったけれど、この空は穂高に繋がっている。
河童橋から見上げる空はこんなに穏やかでは無くても、空の色は変わらないかも。いいえ、鼠色の寒々とした風景であっても全てを包み込む優しさは何も変わらないに違いない。
マイ、ドリーム、ディア。ナベサダのサキソフォンを聞いていると上高地を訪ねた若き日と再びの時を思い出す。
それでも何故か遠い日の薄れ掛けた思い出となりつつある。再度の時、梓川の流れを見ながら歩く事は在るのだろうか?ありません。言いきるな。
この風景は幼い頃、田舎で過ごした秋の景色。実りの秋。収穫したサツマイモを袋に詰め、肩に背負って帰った
栗を拾いに行った道。人の家の畑に侵入して追っ払われたけれど、今となれば懐かしい思い出。
銀杏の大木の根っこに親父の影が写り込んでどちゅう。何かそんな縄文の土人形を見た気がする。いずれ土に帰る。その時、魂は何に宿るのだろう。親父は銀杏の様な気がする。
先日、京都に行った時昔、泊ったホテルの庭に在った銀杏の木。当時は気が付かなかったが、あの木は結婚前から知っていた。この時期多くの葉が黄色く染まり、そして風に舞っていた
まだまだ元気だけれど、久しぶりに訪ねた神社の庭でその事を教えられる。人の生き方は様々だけど、くたばるまではその事が問われている。
フランク永井が銀杏は手品師と歌っているが、ギンナンの美味さを語れてもハラハラと散るあり様は手品師の表現がピッタシかもしれない。
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