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2009年8月 1日 (土)

後出し、じゃんけん

どんなつもりか知らないけれど、今月末の選挙、誰が何と言おうと争点は「政権交代」と思ううのだけれど、そうでもないのかもしれない。今更、政策論争と言った処で出来もしない政策の不毛の論争をした処でと思うのだけれど、そうでもないのかもしれない。

国民主権と言った処でそれは建前、現実は政治と行政のプロがこの国の主権者だろう。言うまでも無くこの国の主権はアメリカとの戦争で無条件降伏の後、憲法で保障されている,平和憲法、基本的人権の保障と共にアメリカから与えられた。戦争に負け多くの尊い人命と財産を失い、手にした憲法の重みを知らない国民も少なくない。

日本国憲法はアメリカから押し付けられたもので、自主憲法では無いと批判する人も少なくないけれど、自主憲法とは何を持ってそう言えるのだろう。戦争に突き進んだこの国の歴史の反省も薄れた時、憲法改正をどんなに口にしてもその実現は難しい。

それ故に改正ではなく時代に合った解釈の仕方、司法の判断で対応をしている。戦争に負けた時が1945年、現代が2009年。親父と同じ年を重ねればそれもやむ負えぬ事かも知れない。それにしてもアメリカに押し付けられ無ければ、手には出来なかった国民主権の重みを今、噛みしめる人は少ない。戦争に負けるまでは国の為に死ねる事は「誉れ」だった。

今は人の為に何かを為す事ではなく、自分の為に何が出来るかが問われている。それさえも出来ないと嘆き、自暴自棄(じぼうじき)になる人も少なくないがそれは違う。一人の力は蒸発をして大地に浸み込まなくても、それが多くの人の思いで在れば大河と変わる。

私達にはその感動が無い。過激な言葉を使えばこの国にそんな歴史が無い。尊い若き命さえも国の為に購(あがなう)われた事はあっても、結果的には国の為では無く、当時の指導者の煽動(せんどう)でしかなかった。今はそんな事を言われたとしても、無視されるだけだろう。(表面的には)(現実は段々、厳しくなってはいるけれど。)

オーバーに言えば(決してオーバーでは無いのだけれど)、今度の選挙でその事が問われている。どっちもどっち、誰がやっても同じ、興味も関心も無い。今はお間抜けが多くなり平然と馬鹿笑いをしているが、その無責任な言動は後になって取り返す事の出来ない代償となる。

その事が分からない。分かろうとしない。そのお陰でこの国は長い間、外国から「経済は1流、政治は2流」と揶揄(やゆ)された。簡単に言えば馬鹿にされた。いまでもそうだろう。日本には金さえ出して貰えば良い。政治的な事にはアメリカのおまけで良い。

国内的には流石の名ばかり国民主権も変わりつつある。否、既に変わっているのだろう。その事に多くの人が気付いて居ないのだろう。麻生総理の言動を見聞きする度に、そう思う。昨年の今頃、如何だったかを考えてみるとその事がよく分かる。

政治の世界は衆参のねじれ現象で、国民の信を問われていた。その事を痛感したから福田前総理は麻生現総理に「解散」を条件に政権を移譲したのだろう?あの時解散をしていたとしても政権交代はあったかもしれない。それでも今日の状況とは大違いだったと思う。

マスコミは自民のマニュフェストが出て、有権者はこれで政策の比較検討が出来るとコメントしているがそれは違う。野球、サッカーの試合で審判から退場を宣告された選手の言い分を聞いてやるだろうか?それと同じ。その認識か無い。余りに酷い(ひどい)プレーが無ければ良い勝負が出来たかもしれないが、それも後の祭りだろう。

後出しじゃんけんはその時点で負け。どんなに立派な事を言っても勝てない。問題は関係無いと言いながら投票行動すら出来ない無党派の動向だろう。それも今回は変わる。それ程に貧しい人が多くなった事の証しだろう。景気の回復は都合のよい指数だけのつまみ食いでは、実現しない。失業者が多くなり有効求人倍率が下がれば政権与党の失速は小さくない。

今朝は凄い雨が降っていた。それも床の中で小便を辛抱しながら稲光と共に聞いていた。久しぶりに昨日、5年前の職場を訪ねてユーリとキーちゃんに合ったからだろうか?そうではなく唯、単に疲れていただけだろう。6年前、慣れぬ職場を2つ経験した後、1年と9ヶ月体験した職場はさびれていた。それでも姉妹の成長は時の流れを充分に感じさせてくれた。

それだけで十分。お店の裏に出来たマンションンもくたびれていた。あの時、我が物顔の振る舞いをした若い母親も如何しているか分からない。5年の歳月はそれだけの短くも長い時間の重なりだったのだろう。何時までも在ると思うな、親と金、無いと思うな人の怨念だろう。自分の思いのまま生きられると思うな。本当の人の優しさはさりげない言動だろう。

帰りに近くの床屋で顔そりをしていると、近くの百姓がスイカを一玉抱えて入ってくる。スイカを割るから包丁を貸せとマダムに言いながら、暴言を吐く。最初は聞き流しながら一層激しくなる言葉にムカムカしてくる。遠慮がちに小さい声でブツブツ言うと声が届く。「流石、親父」

百姓は正面のミラー越しにしか見えなかったが、親父の様にメタボではなく痩せていた。それでも目を合わせる事は無かった。「客は2人。じゃかましいのが分からんのか?」どすの利いた言葉に、素直に独り言を言いながら出て行く。包丁を振り回す事も無かった。

そりゃそうだろう。ハゲ頭に逆らっても貫禄負けが関の山。この歳になっても血の気の多さも変わらない。その代償に体を痛めつけなければならない。最近、ハゲ頭の地肌に汚れを感じる。トニックシャンプーを頭皮が求めているのだろうか?これからサウナです。

サウナ行ってきました。サウナでこの時期汗を掛ける事は非常に嬉しい。反面、この歳になると体力的には苦しい。元気で無いと気分が悪くなる。長い間、思いっきり汗をかき水風呂に飛び込んでいたが、今は流石にそれは出来ない。サウナで汗をかくのは平気でも水風呂には一気に入れない。膝まで腰までそして胸まで。前の様に潜る事は無い。そんな事をしたら間違いなく脱衣場で倒れるだろう。そんな歳になった。あんたも例外にはならない。

銭湯からの帰り近くの自販機で100円の「大山の天然水」を一気飲みをする。これは最高。最近、職場でも「富士山のバナジウム水」を愛飲している。夏はこれが一番。大阪の水道水は以前のようにカルキ味は無い。それでも富士山、大山の天然水は体に浸みる。

このブログでも何度も書いたが流石の親父も、麻生総理の健康管理の真似は出来ない。あの人に言われるまでも無く、年寄りは医者に掛る前に健康とは何か、考えなければならない。病院で検査をして薬を一杯飲むようになったらアウト。最近気になる事は年老いての田舎暮らしは無理かもしれない。これからの年寄りはどう生きるのか、それも問われている。

今度の選挙でその事も考える?冗談ではない。国や行政に何かを頼るな。子供にも頼れず伴侶にも先立たれれば、残る術は金か?金があっても五体満足でなければ厳しい。健康な時、多くの人は病の不安を知らない。でかい顔をして、でかい口をあけ、でかい態度を取っても一度、体調を崩せば不幸は一気に膨れ上がる。その事を知らない。知った時には手遅れで在ればもっと謙虚な生き方をしなければならない。

今夜は流石にビールで一杯と思いながら、近くのスーパーに買い物に行けない。阪神ー巨人の試合が始まり今、8時23分、試合終了にならないと腰を上げられないだろう。今夜は美味いビールが飲めそうにない。バックネット裏のファンもふてくされている。

夕食は昨日の買い置き豆腐を湯煎して、みょうがのすりつぶし、青じそのスーパードレッシングが豆腐の拙さをカバーする。豆腐も安くなったが味が悪いと2度と買わない。その反対も在る。少し高いと思っても美味いと思えば買ってくれる。その感覚はプロで無いと分からない。

最近、消費の低迷で安売りが目立つ。安物買いの銭失いの格言は今は死語か?違うだろう。その認識に誤りが在れば消費の低迷は続く。それ以上に消費者の財布の中身は軽い。景気の回復は美味しい指数のつまみ食いで、金融危機の反省がどれだけ生かされているのだろう?失業者が多くなっても景気の回復は間違いないのだろうか?

そうは思わない。勝ち組と負け組の差は一層明確に成り貧乏、生活困窮者が多くなる事だけは間違いない。自分の道は自分で切り開け。それが出来なければ座して施しを受けるしかない。その本当の厳しさを知った時道は開ける。甘いか。そのうち分かる。それが人の生きる道だろう。

人の生きる道。それは受動ではなく求道でなければならない。今でこそ人として何が大事な事か問われる事も少ないが、幼い時、義務教育の時、高校時代、そして18にして働き始めた時から今迄、教えられ学び取ろうとして、どれだけ歓びを感じただろう?理想と現実の狭間で苦渋の選択しか出来なかったのは、自分の力の不足以外何物でもないと思っていた。

最近になってやっとその間違いに気付く。爺ちゃんもばあちゃんも余りに真面目な人だったから仕方がなくも無いが、世の中そんなに単純ではない。結果的に墓に入る時は同じでも生きている時は千差万別。一人として同じ生き方は無い。真面目に生きる事は当然であり、それだけの価値しかない事も認識しなければならない。

それがこの歳にならなければ分からなかったのかと思うと、砂をかむ思いが強い。それでも爺ちゃんもばあちゃんも親父達の先輩は、多くの人がそうだったのかもしれない。殿の為、国の為、人の為、自分の幸せを犠牲にして何の為に生きたのかと思えば年老いたとは言え気付いただけでも遅くは無いのかもしれない。これから自分探しの道です。

年たけて、又こゆべきと思いきや、命なりけり小夜の中山。(西行)

高齢化社会、後どれくらい生きれるか?それはこれからの自分の生き方ではなく神のみぞ知る?それも違うだろう。アメリカの大統領が変わってもテロとの戦いが終わらない様に、人間の思い上がりは叩き潰されないと分からないのだろう。大体、テロとの戦いを武力で行わなければならない皮肉をどう考えるのか?期待され登場したアメリカの指導者もその事を思い知るだろう。武力で対抗できる事にも限界がある事を知らなければならない。

先日、熟慮の末通販でベッドと敷きマット、かけ布団、枕、シーツ一式を注文しました。フランク永井の歌ではないが13800円。47年前の親父の初任給です。物の値段は飛躍的に安くなったと言われますが全てはまやかしです。国内の職人が作ればこんな値段では買えない。

それだけの事です。安い物は人件費の安い所で造り高くてもそれに見合う価値が在れば、国内で手間暇掛けて作る。それだけの事でしょう。その為に何が出来るのか?その施策を考えるのが賢い官僚でしょう。それが出来なければ景気回復も無いだろう。

その事が問われるのが今回の選挙かもしれない。官僚任せではなく政治主導?これもインチキ臭いが問題山積の時、何とか審議会、何とか委員会では無く何とかせん会、何とかする会が求められる。財源が無ければ無駄を無くせ。無駄はありません?どこかの責任政党がそんな事を言っていたと笑えるかな?微妙?そんなもんかも。さあ、山登りです。

今日から8月。先日と今日、早朝にまとまった雨が降る。その割には蒸し暑い。今年はエアコンが無いとアカンと思いながらそのままに為っている。アパートの各部屋も暑いのだろう。隣の馬鹿は入口の戸を完全に閉めていない。開けっ放し。テレビの音は高いし部屋で料理をするので臭い。生活音と言いながら改める様子も無く管理人も注意しない。その程度だろう。

金も溜まったし住む所も考えようと思いながら、部屋に入れば狭いながらも楽しい我が家。外がうるさくてもラジカセを掛ければ、気になる事は無い。田舎暮らしまでどれだけの年が掛るか分からないけれど、それまではこの生活が続くのだろうか?それも無い気がする。

そんな事を考えていると山登りの気持ちが変わる。「サウナに行こう」。さすがの親父もこの暑さに負ける。汗をダラダラかきながら尾根(おね)道を一気に登れば最高だけれど、その元気も無い。気持ちが変われば急ぐ事は無い。ゴルフの石川遼の優勝を見届けて腰を上げる。

銭湯のサウナは満員御礼。10人も入れば満室の部屋もそれ以上の人。その中ででかい声のおっさんが韓国のカジノの話をしている。最悪。ゆっくり汗もかけない。最近こんな輩が少なくない。良い年こいで人の思いを推し量れないアホがホンマ多い。家でもつまはじきにされているのだろう。(以外にそうでもない。この手のおっさん、親父とはタイプが違う。)

サウナはそんな具合でゆっくり出来なかった。でも其れが正解だった。ゆっくりしていたら其れこそアウトだったろう。「ノボセ」。稀に脱衣場の腰かけに裸のマグロが腰にタオルを掛けてくたばっている。横目で見ながら馬鹿にしているが何時かは当事者になるのだろうか?

それだけは止めて下さい。裸で救急車はシャレにもならない。知らない人もいると思うがお風呂の事故は少なくない。年とってお風呂で倒れるのは最高では無い。最悪。それでも90越えたらされも有りか。西行法師は桜の下で最後の時を願ったが親父は風呂場かも分からない。

でもそれこそ身勝手だろう。残された人の事を思えばもっと違う方法も在りか?コラコラ。明日から又、仕事。暑さもこれからだろうが元気で頑張ろう。これから食事です。今夜は何にするかな?お気に入りのそうめんと巻き寿司、レザートに梨。そんな処かな。、

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