JRは摂津富田 阪急は富田 とんだ間違い 反対と思ってた.
目的の駅は大阪駅から京都方面に向かう。
でもその前に思い出の店に立ち寄る。
大阪に来て営業の仕事中、フラフラしていた。
ぼんやりとしながら、金もないのに何故か、
輝いていた20の頃。
綺麗な食堂街に見えるが、実はJRの高架下
しかし、この食堂街、聞いて驚くな 戦前から。
驚かない では一度お出かけあれ。
カウンターの席か、立ち食い。
それでも常連が多く、いちげんは肩身が狭い。
こうして見ると、商店街のアーケードに見える。
じつは狭い。このスナップも人通りの合間。
ベストショット。右上は阪急とJRの連絡通路。
左手中央においしいパン屋の明かりが見える。
やっと来ました思い出の駅。でも勘違い。
33年前に来たのは、阪急富田駅。
この駅の思い込みが強いのも意味がある。
5年前、この駅に降り立ちバスに乗る予定が
甲子園に変わる。何かの因縁。
駅舎は高架になっていた。立派な建物。
整備された駅北側。ロータリーもバス乗り場が
乗り場、降り場と区分され整備されていた。
阪急は駅南口から約500メートル。
行くべきか、行かざるべきか迷うが、小雨の為、止める。
ホームにデンとマシマス、エスカレーター。
朝夕のラッシュ時には、満員御礼だろう。
昔、階段。今、エスカレーター。これ常識?。
これは圧倒される。普通電車、停車の駅で
これだから凄いよね。
行き先案内も電光掲示板。
昔のように駅員はいないけど、安全は何処で
誰が管理しているのだろう?
よく見ないと分からないが、左側が通過のホーム。柵が有る。
でもこれも分かり難いが、右側のホームの電光掲示も通過になっている。
国鉄からJRになって久しい。どれくらい経つのだろう?国鉄の時を知らない人が多くなり、当たり前と思われている風景も、そうではない。どんなに便利な社会と効率の良い組織になったとしても、安全と安心が失われたらその代償は計り知れない。
国鉄時代、その親方日の丸体質を問われたが民営化されて、何がどう変わったのだろう?綺麗になった建物とホームを見ながら、そんな事を考えていた。同じ事がもっと大きく躍動的に大阪駅でも観察された。
大阪駅の東側出口。親父が大阪に来た時の名称。今は南出口になっている。何で?
どうでも良いが何故か複雑?
18の3月の下旬に、ここから大阪の生活が始まる。「喜びも哀しみも幾歳月」
46年ぶりにこの地に立つと、真に複雑。
電車両は綺麗。これは普通電車。
昔はオレンジ色の汚い電車。
今は外観だけでなく内装も綺麗。
車掌の安全確認も手抜きがない。
しかし、尼崎の事故は多くの教訓を残している。
新快速、姫路行。
この2つの電車のスナップを撮りながら、半時
この位置を動かず。絶え間なく流れる案内放送。昔と違うのは英語放送も少なくない。
ホームに職員の姿が全く無い。
利用客が車掌に不明な点を確認する。
大阪駅のホームは10番。
親父の感覚とホームが違う。
山陽本線の表示がない。5,6番線。
そう言えば東海道本線もない。
本線がなくなり方面になったの?
懐かしい風景。鉄路が見えるから。
正面の観覧車は、商業ビルの中にある。
遠景では高度感はないが、乗って見ると
結構、高い。元気になったら招待します。
摂津富田の感違いは、神の教えだったのかもしれない。例え、JRと阪急の間違いがなくても、昔見学したマンションの場所は忘れていただろう。その事を神は教えていた。
覆水、盆に返らず。過ぎ去りし日々は取り返す事は出来ない。
だからこそ多くの人は健気(けなげ)にも、果敢(かかん)に些細な事にも全力投球をするのだろう。あの日から32年の歳月が流れ、同じ年を重ねる。次の32年はどうだろう?96だもんなー。いくらなんでもそれはない。仮にあったとしても神に憐れみを乞うだけだろう。
人は何故に生きるのかと問われ、その意味も意義も可能性すら見出せなかった。しかし、今は亡き静岡掛川大雲院の大和尚は淡淡と断言していた。(寿命」。人の一生はオギャーと生まれた時に決まる。長く生きたくても生きられず、その反対もない。
もし、己の勝手でその道に背けば閻魔大王の裁きを受ける。単純明快な言葉を満面の笑みの中に片時も離さない煙草の煙をくぬらせながら、優しく語って呉れた。今、こうして生きて居られるのも、大和尚の天上からの見守りだろう。合掌。
追記
土曜日の朝、藤田まことがフランク永井を追悼して、公園の手品師を歌っている。親父が大阪に来たのは昭和38年。庄内の会社の寮で「てなもんや三度笠」、コメディー番組で高視聴率を叩き出していた。白木みのる、香川某氏との軽妙なコメディー。
しかし、その人気番組も終わると人気は一気に下降し、地方のキャバレー廻り。そんな時、支えて呉れたのがフランク永井だった。藤田まことはその後必殺仕事人のヒットで関西芸人のトップに上り詰める。
それでもフランク永井の歌を何故歌うのかは、分からなかった。前回の放送でその事を知る。前回の放送でその事を知る。フランク永井は亡くなり藤田まことも歳を重ねる。その事は親父も同様。(公園の手品師)追悼の歌を聴きながら涙を流す。
このハゲ親父にもそんな純情がまだ残っていたのではなく、単に涙もろくなっただけだろう。(銀杏は手品師、老いたピエロ。口上は言わないけれど、慣れた手つきでカードを撒くよ。)
これからは高齢化社会、少子化社会と尤もらしく、多くを語る人には忘れ去られた大阪のエレジー。この言葉も死語となる。フランク永井が愛した大阪の街、藤田まことが歌ってくれた追悼の歌は大阪の原点。不覚にも公園の手品師の作詞家の名前も歌碑も、忘れさられている。
若い頃、一度しか行ってない法善寺横丁水掛け不動のお参りをしなければならない。
* 庄内…阪急宝塚線梅田から数えて4番目。親父が大阪に来た昭和38年頃はヤクザさんとスナックのお姉さんが多かったが、優しい街、生活しやすい街だった。創価学会の入信勧誘、いとこの1つ違いの勲ちゃんが交通事故で亡くなったのも19の夏だった。
*エレジー…elegy、挽歌、ギリシャ語のエレゲイヤ(哀悼歌)に由来し、この世の果敢なさを悲しみ嘆く歌。…ヤフー百科事典
*・親父の注釈。大阪エレジーの意味は好きやねんの意味が混じる。この意味は大阪人でない親父でも分からないから、正真正銘の大阪人でないと無理かも。大阪の街、さいならこいさんと歌う意味は今日の大阪人にも、分からないだろう。
大阪の再生は長い間言われて、今日も尚課題とされている。大阪は基本的に商売の街。「もうかりまっか」「あきまへんなあ」と言われて久しい。今は東大阪の物作りとか言われても繊維、薬、金物で繁盛した面影は何処にもない。
今、アホな行政が水の都を売り物にしょうとしているが、そんなもんでは東京に頼るだけだろう。大阪のど根性、ドアアホウ、破天荒な型破りが出来なければ大阪の再生は難しい。しかし、悲観的になる事もない。大阪の街は大きく変貌している。
大阪駅の松下幸之助が寄付した歩道橋の上で、足を止めてみるとその事がよく分かる。凄いよ。本当に凄い。見上げると首が痛くなる百貨店の改築、駅の上に伸びて行く建設工事。歩道橋を絶え間なく行きかう人が、その事を教えている。
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