懐かしい風景 失われた過去 これからも続く風景
47年前に通勤した駅のホーム。
普通しか止まらないので、結構危ない。
それでも、今でも事故、怪我人はゼロ。
すごいと言うか、他に言葉がない。
この前の抱きかかえ、突き飛ばし、そんなの無し。
45年前の職場。当時は戦前の建物で、
薄汚れて倉庫になっていたが、新しいビジネスの始まりで、誰もが希望に燃えていた。
親父が入社して2年。当時の一部門が独立。
カナダとの合弁会社。仕事はあっても技術が
なかった。
47年前の入社時の建物。これも20年以上前に、リニュアルされている。
当時の建物は本当に汚く、それでも凛としていた。戦前の建物。当時はそれが普通。
建物の前にバス停があるが、当時は路面電車。阪神北大阪線。野田から天六迄。
大阪梅田から福島の次。当時の駅も綺麗だったが、今は完全にターミナルビルとなっている。駅前もロータリーとビル群となり、今昔の感、深し。
大阪に来て研修中、眼が充血し近くの眼科に駆け込む。その医院も近くにある。爺ちゃん先生は亡くなり、息子が跡を継ぎ関西眼科医師会の重鎮となっている。
阪神電車。急行。昔のカラー。
次の停車駅は尼崎。親父の今日の目的地は
甲子園。2つの目的がある。
1つはららぽーと甲子園。ショッピングセンター
1つは5年前、約半月勤務したお店。
野田の駅から見た南側。
この交差点、右折すると神戸方面。
不慣れな人には、分かり難い。
直進すると大阪の西。大阪湾。淀川河口。
ららぽーと甲子園。
親父が大阪に居た頃、遊園地だった。
阪神パーク。大阪には枚方にもあるが、
遊園地はどこもアカン。
ユニバーサルスタジオもイマイチ。
ららぽーと2回のベランダから入口を見る。
後方が甲子園。今日は試合無し。
広場も閑散としているが、今日は平日。
店内も同様。しかし、それなりに活気あり。
のんびりとお買い物が出来る感じ。
この略図、店内案内では良く分からないが
飲食店と専門店の集合体。スーパーでは無い
M不動産が建物を造り、専門店、飲食店、
Iスーパーは別棟にある。
採算は取れるの?余計な心配をしている。
5年前に開業。地域に密着して着実に、
成果を出しているのだろうか?
親父が見たかったのはそれだけ。
もうすぐ、静岡磐田(いわた)に開業する。
コンセプトは地域との融合?期待されている
5年前、約半月研修したお店は、緑の中に
あった。甲子園球場と逆方向。思いの外遠い
昼飯を食った公園は、あじさいの子供が
成長していた。お店はさびれていたがお客は
それなりにいた。写真は撮らず。無用
あれから5年の歳月が流れる。あの時は初秋。毎週末、台風の直撃に加えて地震迄有り。
親父の生活も大変だった。家康の言葉に「心に迷い起らば、困窮したる時を思い起こすべき」とあるが、正にあの時がそうだった。必死の時に恵まれず、それでも助けてくれる人の思いにいかんとも出来なかった。あの時の思い、あの時の悲運を思い起こせば、大概の事は乗り越えられる。その事がこの公園で再確認できた。あじさいの子供達も元気な親父を見てほっとしただろうか?それはない。季節が違う。生きた時代が違う。それでも笑っていた。
親父の顔には喜怒哀楽はなく、淡淡としていた。あの時が有るから今が有る。あの時がなければ今はない。そんな事を考えていた。無我夢中の時、踏みにじられた思いは消えてない。それでも、ここまで長らえたお陰を忘れてはならない。「人の一生は重荷をおいて、遠き道を行くがごとし、焦るべからず」 家康嫌いの親父が教えて呉れた掛け軸の言葉です。
今日の旅は多くの想いの中にありました。人の命は無情です。生きるべき人が全て、生きている訳でもなく、その事を考えれば日々の生き方が少し又、変わるかもしれない。
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