昨日から五連休。昨日と今日、思い立ったら吉日と八年振りに木次(きすき)に行く。木次と言われて分かる人は少ない。島根、宍道駅から木次線に乗り換えて30分の所に在る。駅の近くの宿に泊まり、雪の舞う年末と氷柱(つらら)の下がる二月の二回、合わせて半月前後土方仕事をした。寒さは気に為らなかったが歳たけて山に分け入り力仕事をするのに、何故か不安の思いは0だった。あの仕事を始めて数か月経ち、要領にも慣れてきた時だったのかもしれない。広島の現場監督の人は年長の親父に親切だった。
あれから8年。色んな事があったがそれでも忘れた事は無かった。「一度、行って見たい。」その思いが今回の行動となる。お金を用意して下着だけをカバンに詰め込み、「唯、行くのみ」それだけだった。普通、旅の目的は観光か温泉?それとも家族旅行?行って帰るだけの旅。それだけだった。
行きは福知山線から山陰線を乗り継ぎ、米子、松江、宍道、そして木次。朝九時半に出て途中、城崎、浜坂を乗り継ぎ鳥取、倉吉経由の旅は快適とは言えなかった。福知山まではオバはんの団体、城崎温泉までは3人の若い娘?我が物顔の奇声、低俗な会話(旅は恥のかき捨てではない)。気を紛らわせながらの時間は短くは無かった。
それよりも残念無念だった事はデジカメのメモリーをパソコンに入れたままにして、持参しなかった事、カメラだけの持参では無用の長物。結局この旅の画像挿入は出来ない。もう一つはこれはレベルが違うがJRのサービス。利用者の利便性、快適性、満足性を無視してまでも何をやろうとしているのだろう?収益性?それも違う。結局目先の事しか考えていない事をこの旅で何度も思い知る。旅に出て不快な思いをするほど気分の悪い物はない。
最初の出来事は木次までの切符を買うみどりの窓口で言われる。気合いを入れてお金を用意して先客の後に並ぶ。朝の8時半過ぎイライラしながら順番が来たと思いきや、担当の青年が意外な言葉を口にする。「コンピュターが不調です。現金のお取り扱いは出来ません」。
「オイオイ。冗談でしょう。切符は何処で買うの?」「申し訳ございません。外の自動発券機でお願いします。カードでしたらお取り扱いします」言葉は丁寧だけれど親父を馬鹿にしている。それとも正直だったのかも知れないが・・・。
「自動発券機で松江の先まで買えないだろう」「コンピュターの所為にするな」親父のテンションの高さに青年気遅れをしたのか、手作業で対応して呉れる。トラブル時の対応どうなっているのだろう。そんな事を考えながら目的地までの切符を手にする。
早めに来て良かったのか悪かったのか?乗車の特急を待つ間、改札前で何気なくJR西日本の社長名の企業の取り組み決意のボードを目にする。何故か、タイトルが無い。先の大事故のお詫びと今後の取り組みの決意が述べられている。?何も変わらず何も改善が無いと指摘されても、利用者の声など如何ともし難いのだろう。それにしてもひどい。これが民間の活力ではないだろう。
楽しかった事は城崎で浜坂行きの普通に乗り込んだ時、同世代(実際は二つ上)の親父と話が合う。最初の会話は親父から。「どちらまでですか」「松江です」。2両の列車は思いの外乗客で空席は少なかった。車外の日本海の風景が何故か故郷のそれとは異なり、眼下に見えた。
日本海の風景を感じたのは皮肉にもこの時だけ。旅は出来れば各停か急行位か。その事を鳥取からの快速電車で思い知る。早い。しかも乗車券だけの運賃。でも乗り心地が悪い。揺れる。うるさい。話は出来るがゆったりとした気分には成れない。
倉敷から米子の間は何故か長かった。隣の青年が意外にも終点の松江迄でしかも、けつを横にしていた。無礼、非礼、それでも親父達の会話は途切れなかった。青年も煩かっただろう。合席の親父は横浜の人だった。(今日はここまで。パソコンの調子が悪い)
横浜の親父と松江で別れ、宍道(しんじ)で木次線に乗り換えやっとの思いで目的の見慣れた駅に着いたのは夕方の5時を廻っていた。長旅にほっとしながら駅前の風景は何も変わっていない。8年前仕事の車を止めた銀行の駐車場もそのままだった。
後半月足らずで満開の桜も怪訝な(けげん)な顔をしながら、それでも懐かしい顔をつぼみの喜びで迎えて呉れた。本当に何しに来たのか分からないと思われても親父の心の中は、8年の歳月が何よりの歓迎だった。何の為に生きたのか分からなくても無上の思いが込み上げて近くの宿に急いでいた。
「こんにちわ、御世話に為ります」何気ない言葉に8年振りの元気が響く。「いらっしゃい、お久しぶりで」宿の主人も変わりない。何か長い歳月が一気に逆回転した気に為る。案内された部屋も何も変わりはなかった。変わった事と言えば親父同様に古くなった事かも知れない。
仕事で来た二日目(仕事一日目)現場の斜面のガレ場で足を滑らせ、夜、足がつった畳の上も其の侭だった。流石にあの時はやるせない思いで足をさすっていたが、次の日、監督が気を使ってくれた。あれから多くの年が流れ今はお互い何をしているのか、知る由も無い。
仮設のモノレールの工事(と言っても多くの人は分からない)。重量物を運ぶ。そして仕事が済むと撤去。あの仕事も結構ハードだった。親父が怪我をしなかったのは偶然ではなく、サラリーマンの時会社で安全管理の知識が有ったからだろう。危険予知、怪我の怖さを一時でも蔑ろ(ないがしろ)にしていたら、今の命は無かったろう。そんな危険と背中合わせの仕事だった。
今となって見るとそれも貴重な体験だった。宿の食事は板前の弟がしてくれた。山陰の海の幸、家庭の温かい味が其処には在った。今回の目的の一つは其れだった。飲めないビールをイッパイ。上手に食えないのどぐろの煮つけ。オデンの小鉢。ジュンサイのさんばい酢。お腹一杯には為らなくても〆は卵雑炊(ぞうすい)だった。
夜は隣の親父の咳払いを気にしながら、何時しか眠りに落ちていた。何処にも出掛けず飲み直しもせず品行方正。静かな夜でした。翌朝は7時起床。そして朝食。祭日とは言え朝は早い。帰りはバスの旅と思っていたが予約で満席。夕方の便しかなく、電車にする。
昨日の山陰線の旅に懲り、帰りは松江から伯備線で岡山に出る。関西から島根への旅はこのルートが早い。しかし特急やくもで中国山地を越える旅は驚きの景色だった。改めてこの道を調べて見たくなる。この鉄路も難工事だっただろう。今の時を生きると格好を付けて見たところで、何も知らない。先人の開拓者の思いと歴史。私達は本当に何も知らない。
先日の旅もそうだったがJRの旅は何故か、駅弁が買えない。駅の停車時間が短く弁当屋さんが居ない。車内販売も途中から。弁当も特産品が少ない。「何でだろう?」利便性と利潤の追求の結果としたら、余りに哀しい。「弁当、弁当、お茶入りませんか?」
途中からの車内販売で幕の内弁当ゲット。本当は違うのが欲しかったけれど。それでもご飯は美味かった。おかずが負ける。それでも残さず完食。窓の外を二度と見れないと思うと何故か愛おしく、次の機会はゆっくりと車の旅を期待する。出来るかな?出来ないだろうな。
岡山で新幹線乗り換え。ここで最後のトラブル。ほんと乗り換えの自動改札は驚き。在来線の特急券と新幹線の特急券、目的地までの乗車券三枚を同時に投入し、一枚は回収、二枚が出てくる。この時後ろの女性が親父が切符を取る前に、投入する。アホか。
アホではない。この機械がまだ完全では無いのだろう。案内のサービス担当が居るが要領も得て無い。この三枚を一瞬にして処理するには一人分が済むまでは投入出来ないようにバーが出る。そのタイミングが早くて二人分が重なる。どないなってまんの?
親父が後ろの女性と切符のやり取りを係員立会いで済ませ、立ち去ろうとすると女性が納得していない。間違いが解消されていない。親父がクレームを付けると開き直る。「一諸にしたのは私ではない。あなた、その言い方何ですか?」流石に親父もブチ切れる。
あの自動改札機、上手く行くのは何時の事だろう?まあ、年寄りは駅員のいる処を通るべし。新幹線は早かった。しかし揺れる。レールの土台は大丈夫?余計な心配をする。新幹線が西に開通したのは昭和の四十年の前半。「ひかりは西に」なんかそんなキャッチフレーズを聞いた気がする。あれから四十年余。どんなに揺れても無事故だから文句は無いか。
新幹線の旅は早かった。新大阪の改札口も自動。ここは特急券のみ回収。岡山程ややこしくも無い。後ろの重なりも無い。これがサービスと言うのだろう。駅員の数だけ減らしてもクレームが増えれば現場の混乱は計り知れない。今度の親父の一人旅でもその事を思い知る。
親父は文句が多いから多くの人に嫌われる。それでも効率と利潤の追求はこれから多くの矛盾をさらけ出すだろう。人の仕事の効率が追求されても経営の効率が問われる事が無い。経営の効率が問われても官僚の効率が問われる事が無い。この国の在り方が問われても政権の在り方が問われる事が無い。親父がおかしいのでは無くおかしい輩は他に居る。
そんな恥知らずの一泊二日でした。お疲れでした。又、機会を見て行きます。今度はデジカメのチップも忘れないようにします。お粗末でした。
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