今年もあと半月、親父の仕事日もあと7日。
今日も穏やかな1日。年金の支給日。仕事は休み。「結構なお身分で」皮肉を込めた愛想を受けても、不快の想いはない。別に反論する言葉もないが申し訳ないとも思わない。今日の多くの出来事と現象は何も一朝一夕の結果ではない。多くの事に過程がありその深い検証無しにその場限りの言葉を並べても、何の意味もない。
この事は親父自身にも言える。今年1年、このブログでも君に対しても多くの言葉を発したがどれだけの重みがあり、役に立ったかと思うと甚だ(はなはだ)疑問である。逆効果以上の不快感も少なくなかっただろう。思いの丈を思いのままに語る時、全てを受け止める優しさは限られて人でも困難かもしれない。その事を今年も痛感する。
諸行無常と言われても分からんかも知れないが、宇宙万物の無常を考えればその程度の事は取るに足りないかも知れない。拘り(こだわり)の思いが無ければ感情の起伏も少ない。些細な事に苛立ちの思いを重ねる生き方は親父らしいと思って来たが、仙人の域に少しでも近づきたいと思うなら、一歩前進しなければならない。
それにしても今年は色んな事があった。怪我や病気をしなかっただけでも感謝しなければならない。今年は初詣もせず正月3ヶ日も仕事だった。大みそかも仕事。それでも仕事が出来る思いの他に何もなかった。そのお陰で戦力外となっても失業の日々を重ねる事は無かった。
昨今、景気の冷え込みで雇用不安が現実の問題となっているが、本当の厳しさはこれからだろう。マスコミも多くのコメンテーターも尤もらしい解説はしても、打開策の見通しもない。自分で自分の生活の糧を得るしかないだろう。それすら出来なくなれば活路はないだろう。
今回の不況はこれまでの景気判断では語れない、この国の経済構造の転換期だろう。親父が若い頃から言われた「内需拡大」。この国の経済と政治の変革でどれだけの変化があったのだろう。ノーベル賞の分野でも物理や化学の受賞者は出ても、経済ではない。
この国の経済学者がこれほどに国の行く末を指し示せないのは、アメリカの経済理論を越える学説がこの国に打ち立てられ無かったのだろうか?資本主義、自由主義、自由競争、多くの言葉が建前で、デモクラシー、フリーダム、多くの夢物語を語っても現実は、閉鎖的で不合理、足の引っ張り合いでは今日の結果もアメリカだけの所為ではないかも知れない。
この国の技術革新は目覚ましく、世界に誇れる。技術立国、技術大国と言われても技術だけでは国の経済は成り立たない。どんなに優れた技術でも何時までもは競争には勝てない。常にライバルとの競争。生き残りは簡単ではない。
これからの社会は何が必要とされ、何が不必要になるのだろう。問われるまでもない。必要とされる能力。それが無ければ使い捨て。労働力の固定費が変動費に変わった時、企業のコスト低減は出来たとしても、経済の活力にならない事が経済学者の問題提起すらならなかったのは、この国の大きなミステイクだったのだろう。この代償は少なくない。
言うまでもなく国際競争力が無ければ国の経済は成り立たない。それと同じぐらいに国の経済は生活困窮者が多くなれば、深刻な危機となる。総論賛成、核論反対と野党の問題取組を批判した政府と全く変わらない。景気に大きな陰りが出ればどんなに国際競争力が強くても、国の経済が成り立たない事を理解しないのだろうか?
この原因の一端は政府だけでなく、組合の責任でもある。組織の利益は組合員の利益だけで無い事をどれだけ理解したのだろう。今でもこの閉塞感を打破するには賃上げが必要とか言われているが、これからはそうではない。如何にして労働価値の分配を多く出来るかだろう。どんなに企業の論理を振り回しても、企業の製品が売れなければ言わずもがなだろう。
しかし、問題はそれほど簡単ではない。国内で物が売れなくても国外で利益が出ればそれで良しとする企業も少なくない。グローバルと言われる社会はそんな社会かも知れない。それでも本当にそれで良いのだろうか?この国の経済はこのままで良いのか?間違いなくその事を問われている。人の事はどうでも良いと思う人が多くなれば、必ず国は滅びる。
今年の歳の瀬はあたたかだけれど、野宿する人も少なくはないだろう。景況判断が悪くなったとしても驚きはない。生活の深刻さは今に始まった事ではない。その事をどれだけの人が認識しているかが問題だろう。物が売れない今年の年末商戦は一層深刻さを増し、選別の不安は小さくない。本当に歳の瀬は慌ただしさだけではないものが重なる
今日までの休みが終わり明日から3日の仕事。その後3日の休み。それでも仕事があるだけ親父は恵まれているのだろう。今日は天気もよく布団を干して洗濯をして地方税と国民健康保険を払う。昨日は久しぶりに山登りをしたが、今日は400段の階段を登る。
メタボな体形は1日位の山歩きでは変わらない。これからは気合を入れて歩く。久しぶりの階段は昨日の効果?で息の上がりは無かった。この前の時が何時だったか思い出せないほどご無沙汰している。汗もかく事無く心地よい。ゆっくりゆっくり石段を踏み付ける。
昨日と同様、展望台で何も考える事無くぼんやりしていると、六甲の山並みに掛かる日差しが雲間から漏れていた。後から来た若者が一眼レフのカメラでシャツターを押していた。来年の事を語るにはまだ早いけれど、雲の合間に差し込む日差しは弱くは無かった。
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