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2008年12月

2008年12月30日 (火)

今年は今年、来年は来年。しかし激動と変革。

今年もあと1日で終わり。テレビでは帰省の混乱を伝えているが、昨日の新幹線の混乱は正に今年の世相と政治経済の象徴でもある。何たる無様、何たる体たらく、何たる無策、それでも利用客は口先では不満の声を挙げても、コンピュターのシステムトラブルならばと諦めている。文句を言った処でしょうが無い。問題解決まで待つしかない。そう思うしかない利用客の弱みに当事者の問題認識は余りに小さい。企業の社会的責任がどんなに問われても、喉元過ぎれば何とかとやらで、コンピュターの発達は益々、多くの人の思いを飲み込んで便利さだけでなく、不便さも押し付けて行くのだろう。今年前半のこの国の活力が如何に砂上の楼閣であったかが、秋になってアメリカの金融破たんで現実問題となったが、本当はこれからの対応が問われる事をどれだけの人が認識しているだろう。

かく言う親父も今年は無策だった。自己弁護が許されれば必死だったのかも知れない。昨年12月からの新たな生活の糧の為とは言え、何の取り柄のない親父に求められた仕事の内容は「余計な事をしない、言わない」だった。無我夢中の時に体験した叱責と若者の非礼な振る舞いは忘れられない。それでも春の時を過ぎ夏の厳しい暑さの頃には、一人前の顔をしていた。今、考えて見ると赤面の至りである。その延長線に戦力外通告があるとは予想外だった。それでも捨てる神あれば拾う神ある。これが今年の親父だった。

それでも有り難い事にメタボな体形は一時改善した。ハードな肉体作業から解放された時、せっかくの減量成果も店内巡回が無くなると共に元どうりの腹になる。ウエスト105は余りに無様。座ってパソコンのキーボードを叩くとお腹が閊える(つかえる)。それでも他の親父と違うのは自覚がある事。最近は近くの山の麓まで歩き、帰りに駅の近くの公園で体の曲げ伸ばしをしている。それだけでも効果は少なく無い。しかし、それだけでは足りない。

本当の減量は食事制限。体重だけでなく血圧と血液濃度を変えるに食べ物のコントロールをしなければならない。今の体重は食い過ぎ以外の何物でも無い。新しき年はまずこの事を改める。腹8分目、それで辛抱できるか?それで満足出来るか?その為には今年続けたカット野菜とモヤシ、白菜と豆腐、魚、豚の細切れ肉中心の食事。その量を半分にすれば良い。時には少し贅沢をしても量は増やしてはならない。(インスタントラーメんも程々に)。グラッチェ。でもあの塩味は何よりの癒し。あれが無くなると活力がなくなるかも・・・・。

今更長生きをしょうとは思わない。それでも死ぬまで現役で無ければならない。夫婦で無くても雄々しく生きるには仙人でなければならない。仙人は霞を食って生きると言われているがこれからの高齢者は健康でなければならない。健康の財産を手放した時、棺桶が近くなる。

親父は5年前タバコを止めた。1年前にはパチンコも止めた。新しき年、ウエイトコントロールが出来た時、理想の体になるだろう。その時ようやく精神だけでなく健康な肉体を手に出来るかも知れない。年老いて若々しさを求める軽薄な思いは無い。しかし、本当に健康な肉体を手に入れた時、意外にも朽ち果てる時は近いのかも知れない

来年の事を語ると誰かに笑われると言われるが、親父の来年のキーワードは産地再生です。今年ほど産地が問われた事は無い。産地偽装が問題になっても産地の問題が提起される事は少なかった。消費者が産地に求めた事、それはコストダウンしか無かったのだろう。口先では安全安心を問題としながらそれにはコストが掛かる事を、どれだけの人が理解していたのだろうか?安全安心でコストを下げるには国産では無理である事を、どれだけ理解出来ていたのだろうか?安全安心を馬鹿の一つ覚えの様に口にしても、高い物は買えない多くの消費者に行政はどう説明するのだろう?その為には物流と経済構造の大幅な見直しが要る事を、どれだけの人が理解しているのだろう?消費者はもっと賢くなければならない。

産地偽装がいけないと言われる。産地偽装をした会社の社長が頭を下げている。産地偽装をしなければ物が売れない現実は、舌を出して笑って居ても当然の様に問題にもならない。そんな物造りと食の安全が両立出来る訳がない。本当に安全な物を口にしたければ、何処で誰がどんな思いをして生産しているかが、分からなければならない。それは食べ物を口にしただけで分かる物でなければならない。食の安全と安心はそんなもんだろう。違うか。

親父が今年元気でいられたのはそんな思いだったのかも知れない。食い過ぎは不覚だったけれど食い物に安さのみを求めた事は無い。無農薬農業はこの国の農業の成り立ちに、どれだけマイナスであるかすら、消費者は知らない。農薬が悪いのではなく使い方が悪いとつぶやいている西会津農家の母さんの言葉に何故か、説得力がある。

この国の経済の落ち込みも深刻になっている。製造業の好不の分岐点は売れ行きにあるが、今年の前半の好況も9月のアメリカの金融危機と共に大きく国内の景況感も失速している。景気の落ち込みは暫く続くと言われても、アメリカの活力に再びの時がなければ終わりの時は見い出せない。その事が現実の問題となってもなかなか軌道修正は困難かもしれない。

その時、この国の物造りはどうなるのだろう?どうも成らない。どうか成るのは勝者でありその代償は小さくない。国内での物造りは難しいと言われても、国内の労働者が物を買えなくなれば企業の生き残りも容易ではなくなる。国内で物を売り国内で生産が出来る、そんな企業でなければ消費者の支持はない。支持が無ければ生き残りも難しいだろう。

物造りの喜びは他に真似の出来ない品質と価値。それが無ければコスト競争になる。今やアメリカでもヨーロッパでも電化製品では、メイドインコーリャ。その差は無いと言われている。そうなると価格競争では必ず負ける。ライバルにすら成り得ない。

車はアメリカの市場で圧倒的なシェア―を獲得したが、肝心のユーダー(購入者)に高い車のローンが組めなくなる。金融危機の直撃を受け深刻な買い控え。そうではなく買えない。乗れない。車を手放すしかない。何たるアメリカン、ドリームだろう。夢が覚めた時、これ程までの結果になるとどれだけのアナリストが予測しただろう。経営判断に誤りが無かったとは言えないだろう。グリコのオマケになった国内売上にどれだけの危機感を抱いていたのだろう?この教訓をどう生かせるか?その事が来年問われている。生かせないかも知れない。

そうなると来る年の物造りには厳しい日々しかないだろう。物造りの現場だけではないこの国の経済に暗さと深刻さだけが残る。そんな年には成って貰いたくないけれど親父の思いなど遥かに越える息吹は今、秘めやかにその時を待っているのかも知れない。

春の息吹は心躍るけれど、生活弱者、ホームレスの増加は景況感を一層悪くする。国民の支持を失った今の内閣にはその対策は余りに無い物ねだりだろう。在る時は財政の立て直しを口にし、ある時は景気対策を口にする。年末の景況感は100年に1度の危機と盛んに口にしても、その原因と対策が余りにお粗末だろう。

アメリカの金融危機はアメリカだけが作り出した危機ではなく、世界的なお金の流れと国内の金利、経済政策に誤りがあった事を認識しなければ何の解決策とはならない。それ位の事が分からない経済の認識で景気対策をすれば、来る年の経済に出口はない。

この閉塞感を叩き破るには、何が必要なのだろう?。その事が問われている。非正規の労働者、生活困窮者、生活保護者、多くの恵まれない人々だけの問題ではない。彼等も厳しさだけを口にするだけではなく、何が問題なのか考えなければならない。不安定な生活は今日の激変には耐えられない必然の結果とどれだけの人が思い知るのだろう。

今、問われている事はその事かも知れない。人は何故に生活をするのか?生きて行くのか?大変だからと言って誰も手は差しのべては呉れない。一時的、緊急的救済は在っても恒久的に貧者の救済はない。今回の危機はその事を教えている。

今年も多くの事を語ったが来る年の親父の生き方も又、人事ではない。今年も何とか生き抜いたけれど多くの思いは実現していない。歓びと哀しみの中に多くの徒労が少なくなかった。侮りと冷笑の中に優しさと思いやりの心は小さかったけれど、それをどれだけバネに出来るかが問われている。この世の中綺麗事だけでは済まされない。

最後にここまで読んで呉れたお礼に来る年の多幸を祈念しています。又、頑張りましょう。良いお年を。

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2008年12月26日 (金)

寒い、寒い、でも日本海はもっと寒い

今年の歳の瀬はそれを感じさせない暖かさと、景気の一気の落ち込みと多くの思惑が重なりもうすぐお正月の実感が無かった。でも時の流れはそんな間抜けな人の思惑を嘲笑いながら、確実に流れて行く。非情と言うより何人も寄せ付けない。今年も本当に押し詰まる。

大阪は初雪。昨夜から一気に寒くなり流石の親父も遠赤外のストーブにかじり付いている。昨年までのパンツ一丁が今年はアカンかも。でも間違いなく今年は何とか辛抱できても、来年は危ないね。歳とって自慢する事ではないかも知れない。

しかし、8年前の事を思えばそれもチョロいかもね。都会人は少し暑ければたまらんと顔をしかめ、反対に寒ければ文句を言う。この国の宝を何と心得ている。春夏秋冬。季節の移ろいは風情と情緒を高めるが、それだけではない。冬の寒さがあるから春の暖かさが愛おしい。夏の厳しい時があるから秋の木々の色付きが綺麗に見える。

8年前、鳥取の木次に居た。仮設のモノレールの工事。足もとの悪い急斜面に足を取られながら、2人の先輩の足手まといになっていた。それでも親父の振り降ろす木づちが無ければ、仕事は進まなかった。山合いの足もとの悪い尾根を登ると、そこは日本海の寒風が粉雪に混ざり、横殴りの風雪となっていた。サブちゃんの風雪流れ旅の世界に浸る余裕すらなく、唯、黙々と尺取り虫の前進、あるのみだった。寒さとか空腹とか疲労感の消えた世界だった。

今、あの時の事を思えばどんな寒さにも耐えられる。仮に忘れたとしても木次の後、体験した年明けの雪の中の仕事は、人は寒いとか辛いとか言えなくなった時、不思議な力を出す事に痛感させられた。。雪の中で寒いと思うのは仕事が始まる前と終わった時。仕事中は何も感じない。暑いと思う位である。本当の寒さはこれからでもその事を忘れなければ、親父の寒さは贅沢かも知れない。

不況になれば消費が落ち込み、好況になれば伸びると言われて来た神話は、過去の話である事にそろそろ、気付くべきだろう。確かに昨今の雇用情勢は厳しい。来年は更に厳しくなるだろう。しかし、政府に何かをどんなに求めたとしても今の政府と行政には、その対応が出来なくなっている。間違いなく来年の早い時期に国民の信を問わなければ行き詰まる。

しかし、この国は共産党がリードする国ではない。では誰がリードする様になるのが良いのだろう?それを考えなければならない。その事が問われている。どんなに財務大臣が声を枯らしてもこの人も、次の選挙で支持されないかもしれない。今はそこまで来ている事に誰が気付いているのだろう?いずれその審判は下る。

誰が考えるのか?国民の生活をないがしろにしても関係ないと思って来た多くのツケを今、払っていると思えば良い。高いツケになっているがその事にこれだけ生活と景気に落ち込みが出れば、何時までも無関心ではいられまい。その事が今問われている。

反面、何も変わらず厳しい寒さは都会のあちこちにホームレスの姿を多くするかもしれない。多くの恵まれている人ばかりでなく、それなりの人やそれ以下の人でも価値観は多様。人の事どころではなく自分が良ければそれ以上は、望まないかもしれない。

最近の若者にそのような輩が少なくないとも言われて来たが、成人も年寄りも自分の事ばかりではなくもう少し、この国の事を考えなければならない。(親父もまだ、青い)

今年の仕事も予定は後1日。来年はもうすこし笑える時が多いと良いね。

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2008年12月21日 (日)

明日から今年最後の仕事、来年の光は見えるかな?

昨日のブログで紅白の事を書いてたら、面白いと言われるよりアホかと言う方が多かった。それでも親父の見方もあながち間違っていない。この国の財政赤字は他国の比較でも最悪、単純には比較できないが国の予算の3割強が借金、地方の公債を含めると多くの国民は愕然とする。北海道夕張市の財政破綻は決して他人事ではない。その現実を知らないだけである日、突然首が回らなくなるだけだろう。そうならなければ分からない。

そう思っているのは例外かと思っていたらそうでもない。最近は大きな出来事が無ければ買わない経済新聞の社説に「不況脱出、戦略見えぬ来年度予算」とある。最近のアンケートに多くの人が景気対策を求める。当然の様で当然ではない。限られた予算で最大の効果を出すには戦略が要る。それが求められている。今やこの国には時代を変える活力すら、失われているのかも知れない。その事がどんなに問われても先送りしかないのだろうか?

そうだとしたらせめて沈む船から脱出する術を身に付けなければならない。今、その事が問われていると思えば良い。景気対策の為、金融危機の世界的不況の為とか言われて、貯金の金利が限りなく〇に近い。否、キャッシュ、ディスペンサーの引き出し手数料を考えれば持ち出しだろう。そんなにしてまでも金貸し金利を下げなければローンが組めない?違うだろう。これからはローンも組めない親父達がごまんと出るだろう。五萬ですむか?済まんだろう。

その対策を求められてもこの内閣にはその戦略と対応能力が無いのだろう。明日からの年の瀬の気候はまだ温かいかもしれないが、息の出来ない位の厳しさは目前に在る。五感で感じないだけで少し見方を変えれば其処ここに見る事が出来るだろう。それが厳しい現実です。

昨日のアクシデントで怪我が無かったのが何よりの吉兆。そんな事を考えながら今日も歩いた。小雨でも傘を差しながら歩き出すと見計られた様に雨も止む。以前はゆっくりした足取りも最近は速歩。息を弾ませる事もなく歩を進めると夕暮れの時は早い。今日は冬至。

久しぶりの前の大家のオカアと携帯で話しをしていると、肩の付け根から二の腕に掛けて痺れが感じる。昨日の影響?これくらいで済めば良しとするか。手を擦る間もなく長話を続けていた。山裾で少し道なりに歩く。体育館の室内プールを横目に見ながら引き返す。

街中の市役所前の小さな公園には人影も無かった。近くの塾の明かりもなく夕闇の公園には親父の空拳の姿しかなかった。太極拳と言うには体の動きがぎこちなく。空手の練習と言うには鬼気迫る迫力がなかった。全身の節々のきしみを感じながら体を動かしていると、年の瀬と言うのに額には汗がにじんでいた。

先日から感じる首筋と腕の付け根から背中に掛けての違和感は、節々のきしみと実感する。運動しないとこれ程までに全身にきしみが出るのだろうか?今こそ自分で自分の体の揉みほぐしの必要に迫られるとは。なまくらなメタボな体は唸り声をあげて肉体の改造を迫っている。

これからやります。人の事はどうでも良い。自分のハゲ頭もどうしょうもない。それでも老いぼれの体は激しくなくても心地よい運動を求めている。腕と腰を曲げながら笑っていた。アアア、幸せのトンボは何処に行ったのだろう?長淵でも清原でも無く舌を出して笑われていた。

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2008年12月20日 (土)

今年も紅白とは無縁です?(と言いながら見るかな?)

この国は本当に平和な国です。日本人は先祖を探れば大陸のモンゴロイドと南の海の海洋人、それと北方のアイヌ系に分かれると言われるが、縄文のその昔から受け継がれて来た伝統と文化は、時の移ろいと共に消え去り今日のそれは真に危うい。否、既に失われているのではないだろうか?親父の様に義務教育+3年の教育しか受けていなくても、その事を痛感する。一体、一流大学を優秀な成績で卒業して行政のエリートとなった人達は、この国の行く末に危機感を抱かないのだろうか?そんな思いでここ数年、紅白は見ない。(笑い)

紅白とどんな関係があるの?馬鹿じゃないの。馬鹿ではありません。けじめです。けじめ?誰が誰に?紅白は国民的年末大みそかの行事として親父も長い間、間抜けな顔をしながら見ていた。しかし、流石に今年はそれは無いでしょう。年末助け合いとか言いながら大晦日は、特別な訳が無い。恵まれている人もそれなりの人も今年の歳の瀬はその程度かもしれない。お笑いにしても初出場のお馬鹿に「紅白もちょろい」と言われる事は無いだろう。

今年の歳の瀬はラジオでジャズを聴きながらアメリカとこの国の違いを考えたい。気障(きざ)。親父が鼻つまみになる訳です。でもそれもこれも好むと好まざるとに関わらず、時流でしょう。何時までもあると思うな地位と金、無いと思うな声なき声。(古い)。古い奴だとお思いでしょうが新たな年は、新たな皮袋。これもこの国の伝統です。成るか為らざるかは見てのお楽しみかも。歳の暮はそろそろ、そんな送り方も良いんではないでしょうか?

来年度の予算内示(又、難しい事を平然といいますなあ)。余り気にしていないと思いますが流石の親父も唖然として口が締まらないのではなく、役人の考えている事はこのレベルと思い知らされる。国債が発行され始めたのも、親父達が働き盛りの頃。でもあの頃は建設国債と言われていた。今日の国債残高を聞いて多くの人は関係ないと思っているのだろう。

親父もそうです。恥ずかしながら。政府のその場凌ぎ、問題の先送りが国の財政に穴を開けても国債で補てんをし、無駄の排除、効率化をしなかった。未だに行政の改革と言われても無駄は無い、民間に出来ない事をやっていると言われる。では構造改革とは何だったの?

多くの純ちゃんと叫んだ都会のオバはん達も、郵政民営化を支持した国民もこれから長い間、そのツケを払わなければならない。それだけならまだしも、そのツケの先払いをさせられる生活弱者は哀れである。それも古今東西よくある話かもしれない。でもそれは人事ではなく回りまわって自分達に降りかかる事を、どれだけの人が理解しているのだろう。

国の財政の破たん、それは無いと誰もが思う。しかし、この先に野党が政権を取っても消費税のアップが避けられない事を、どれだけの人が理解しているのだろう。景気は悪いからとか、会社、商店、個人の生活が苦しいとか言えなくなる。間違いなくこれから先も、全てが良くなることは無い。そんな当たり前の事が見失われている。

も一つ難儀な事がある。今はあまり論議されないサラリーマンの源泉徴収。武士の時代は農民が一番、納税(年貢)で泣いていた。今日ではサラリーマンだろう。サラリーマンと言っても正社員だけではない。非正規労働者、バイト、給与所得者全てが前年の所得で税金、地方税、保険料が天引きされる。その負担額が大きすぎて限界に近付いている.

そうなれば残る方法は消費税しかない。他に方法があると言うのは一部の政党と学者だろう。資本主義の国では富める人もそうでない人も無税では成り立たない。国の成り立ちは税である。税を払えなければ企業でも組織でも成り立たない。誰かに恵んでもらわなければ。

共産主義の国でも国が豊かでなければ無税ではないだろう。この国の人達も何か勘違いしているのだろう。会社の利益が出なければ法人税は0。利益が出ないではなく出さなくても存続が出来るからだろう。利益を出さなくても企業が存続できる事が可笑しくない筈がない。

これからはそれが当り前ではなくなる。利益が出せなければ存続できなくなる。問題はそれから先だろう。失業者を誰が支えるのか?来年度予算の様に国がやる?国がと言ってもそれは税金だろう。その税金を払えない人の為に払える人が支えるの?本当に資本主義の国で共産主義の国でもやらない事をやるの?そんなアホな。出来る訳の無い事を本当に景気対策の名の元にやるのだろうか?学問のすすめを説いた明治の賢人に笑われるだけでは済まないだろう。

本当に今やらねばならない事は、この間抜けな親父でも分かる。バラマキではない。分かち合い。片方の手で利益を誘導しながら空いた手でバラマキをしてはならない。生産の規模の縮小は違う分野の拡大を計らなければならない。これからは少子化と高齢化社会と言いながらどんな手立てをしているのだろう。

医者にモラルが無いと言われて総理が批判されたが、過疎の地方にどれだけの献身的な若手が居るのだろう。都市の待遇に惑わされていないのか?そんな問いかけすら出来なくなっている。歳を取っても何とかやらで怪我と病気は自分で予防するしかない。

親父も今日で3回空を飛んだが、何時までもは続かない。その為に命ある限り体を鍛えなければならない。ミカンと旨い物を炬燵で食いながら団欒の時を過ごす事は、これからも無いだろう。寒い夜空を見上げながら初詣に急ぐ事もないだろう。せめて愛しい人を思いながら新たなる希望の年を迎えたい。

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アクシデント、とっさの受け身が身を守る。

昨夜、寝る前歯磨きの後、部屋に戻ると歯茎に違和感を感じる。手で触ると何かの糸引きを感じる。良く見ると血。慌てて手鏡をかざすと歯茎が切れて血がにじんで止まらない。「アカン」と思いながらも為す術がない。タオルで押さえて見るとその時だけ血は止まる。

母さんが元気だった頃、処置した左上奥の3本ブリッジはもう何回も取れている。処置した時が兄貴が高Ⅲだったから16年前?もうそんなになるか?大阪に来て何度も外れ、今年になってからは外れる度に近くの白ひげ先生に、今度は外れたら入れ歯と断言されていた。

そのブリッジを変える前に、それを支えている歯茎が駄目になっている。手鏡でじっと見ながら赤く微かに切れたブイを見ながら、明日は医者と決めていた。今朝は躊躇(ちゅうちょ)なく、それでも朝起きたのは休日には少し早い9時過ぎ、食事は歯を見て貰うので辛抱する。

今年1年、本当に御世話になった先生は一見して適切な処置をする。歯茎は歯の支え。歯茎を直さないと入れ歯も出来ないと言われる。「ごもっとも」。来週もう一度消毒と言われる。ありがとうと思いながら、今年1年の御世話に感謝する。

耳も今年1年、耳カスをほじくり過ぎて何時も綿棒が赤くにじんでいた。こちらも内耳は柔らかいからあまりかきすぎては駄目とどれだけ言われたか。今も少し腫れて痒いので今日も梯子をする。医者の梯子は感心しないが、傷と病がひどくなる前の処置が肝心。

耳も大したことは無かった。アクシデントはその後に起きる。全く予期せぬ出来事。緩い下りの道、前かごの領収書が風に舞ったので何を血迷ったのか、自転車の前ブレーキを思い切り掛ける。当然前輪はロックされ後輪で体に慣性モーメントが働く。ママチャりのU字のハンドルから腕は外れ、スローモーションを見る様で一瞬の宙を舞う。思う間もなくアスファルトの地面に体を叩きつけられる。しかし、親父の凄さはこの歳になっても咄嗟(とっさ)に体を丸め左手を出し、受け身の体勢を取っていた。一つ。間違うとタダでは済まなかっただろう。

近くで車をとめ携帯の電話をしていたアンちゃんが、会話を中断せず親父を心配して声を掛けて呉れる。もんどりうって苦笑している親父を見ながら話しかけているので、電話先の相手も心配している。「どうしたの?」尻もちははついていないので、左手と右手の甲の擦り傷を擦りながら、アンちゃんの親切に感謝する。自転車も五体もなんともなかった。

昨日の公園の自己鍛練と変わらぬ咄嗟(とっさ)の身のこなしに安堵する。正月が来ると言うのに大事に至らなくて本当に良かった。運が悪ければ今頃近くの病院のベッドで、唸っていたかもしれない。自転車を起こして体の無事を確認しながら、走りだすとその先でもオバはんが見て見ぬふりをしていた。アンちゃんとえらい違い。親父も何時しかメンチを切っていた。

最近の若いもんはなんだかんだと言われても、一括りには出来ない。横着、無礼、礼儀知らずとぼやく前に己の姿を重ねて見なければならない。そして予期せぬ出来事の対応は、身の軽さが大きく左右する事を改めて感じる。。メタボな親父が宙を飛びながら咄嗟の受け身を取ったのはこれが初めてではない。しかし、それも9年前の市場のバイトと8年前の土方仕事だった。あれから多くの歳を重ねたが、咄嗟の対応は未だ出来ていた。

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2008年12月19日 (金)

床屋も暇?今年の歳の瀬は本当に厳しい?

親父の行きつけの床屋さんも今年の歳の瀬は厳しいとか。それでも本当の厳しさはこれからだろう。雇用不安とか金融の危機とか言われても、正直首筋と生活が厳しくなるのは暫く先の事としか感じられない人が多いのだろう。それでもアメリカの経済落ち込みはこの国で感じる以上に大きい事が現実の問題になりつつある。しかし、自分が当事者にならなければ分からないのも、情けない人間の性(さが)かもしれない。このノウテンキと喚いた(わめいた)処で何も変わらないのが現実だろう。

テレビは言うまでもなくラジオでも、電車やバスの中で口を開けて大笑いをしている人を見聞きする度に、眉を顰める(ひそめる、しかめる…この言葉も漢字も死語)。何がそんなに可笑しいの耳を欹てれば(そばだてれば…聞き耳をたてる)他愛もないパフォーマンス。高崎山の猿と同じ手を叩く仕草に重なる。人類の進歩の片鱗は何処にもない。

そんな事をつぶやきながらせっかくの休日。頭は別の事を考えている。頭は毛が少ないが伸びて来たので床屋に行く。眉毛も伸びたので切り揃える。この歳で剃りこみを入れても笑いものだが、若者に「オッサン」と言われるたびにハゲ頭に剃刀を当てたくなる。

最近は仏門の僧でも頭を丸める意味が少なくなっている。親父の様に俗社会に生きる老いぼれに出来る事は、そんな事ではない。背筋を伸ばして胸を張り足腰を強くして生きる事だろう。そんな事を思いながら夕方近くの公園にウオーキングの帰りに立ち寄る。

夕暮れが早くなり近くの建物の明かりが差し込む公園に、流石に人の気配は無かった。明かり漏れる建物も前はパチンコ屋、今は進学塾。公園から見える建物の蔭に子供達の姿は無いが、賑わいの時はこれからだろうか?子供達の学力低下が問題視されているが、この国の明日に学力が生かされる時は、待ち受けているのだろうか?

公園デビューは今日が初めて。空手の型は素人だが空拳の持つ力に限りはない。中学の時、桶の中の土を叩きながら拳の骨の尖り(とんがり)を平にした時を思い出す。メタボ対策と笑われてもこれから太極拳の真似事(まねごと)を続けて行きたい。合掌

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2008年12月18日 (木)

企業の社会責任?個人の社会的責任、そしてモラル、倫理とは

食品の産地偽装で問題の会社の社長が涙ながらに、陳謝している。哀れに思う。でも厳しい産地追及の消費者の選択をこんな形で謝れる人は、ばれたからとは言え哀れだと思うのは、親父の優しさ?だろうか。問題を指摘されても開き直るだけではなくて、反対に恫喝(どうかつ)の態度と言葉を露わにする非常識と対比すれば、間違いなく涙ながらに謝る方が哀れだろう。決して許せないと息巻いたとしても、この世の中はそれほど単純ではない。

何事も表面的に見るのではなく、事象の裏面も知らなければならない。大体、大した買い物もしないで、出来ないで、安物を求めれば国産品はないだろう。表示が問題だとか中身がどうだと言った処で安物には、それだけの価値しかない。それは当然だろう。

それを見抜く眼、判断する思いが問われている。マスコミの報道もその程度だろう。事の真意は見方と切り口でいか様にも変わる。コメンテーターとアナウンサーがどんなに尤もらしく語っても、それは貴方とあなたの会社の報道基準だと思えば聞き流せる。

今の景況感は数か月前にはこれ程深刻さを増すとは、どれほどの人が予測しただろう?さらに言えば1年前からの今日の予兆を、感じた賢人はごく僅かの見識者であり今、声高に問題を語る愚人は鈍感であり無知だったと言える。その程度である。

来年の事を多く語るなら原油価格が40ドルを割り込んだ事実を見据えれば良い。何時の事だったかさえも忘れ去られつつあるが、ガソリン価格が170円の後半だったのも数か月前の話である。あの時、今日の状況をどれだけの人が予測しただろう。

しかし、考えて見れば原油もガソリン価格も4年近く前に戻っただけ。繁栄の未来を何時まで予測したのか知らないが、道路特定財源を平然と上乗せした政治屋さんの感覚は後世の笑いものだろう。地方の知事の多くも当り前と言いきった感覚のマヒ。これも哀れを通り越して悲劇である。

物の価格には必ず根拠がある。安売りには安売りの根拠。高い物にはそれなりの理由。消費者はお金を見比べながら欲しい商品を選択している。食は文化でも飾でもない。衣は自己主張。住は生活水準だろう。

企業の社会的責任も個人のそれも、どれだけ自分で意識できるかだろう。人から言われるからやるのではないと、オフクロからよく言われ君達にも言い続けたが、そろそろ親父も年貢の納め時かも知れない。どんなに不快な事でも見て見ぬ振りをする生き方を身に付けなければならないのだろう。その為には経済的自立と男としての強さも必要だろう。

見て見ぬ振りをする生き方、若い頃馬鹿になれと良く言われた。「君はまだ若い」「君は世間を知らない」「君は処世術をしらない」「自分の考えに素直に生きるのはいいが、人を不幸にするな」。多くの言葉を飲み込みながら消化不良を繰り返していた。

もう少し賢く生きれたらと思うばかりで、見ざる、聞かざる、言わざるの生き方をあざ笑っていた。そのツケを今も払いながら哀れに生きている。しかし、思いを歴史と今日の混乱に重ねて見ると強ち(あながち)、親父の生き方が誤りだったとは思わない。

歴史的に見ても多くの悲劇も少なくないが、個人の盛衰は多可が知れている。如何に栄華と繁栄と思いのままに生きた人物も最後は悲劇である。その反対も少なくない。もうすぐ新年を迎えるが誰でも年の始めのためしの思いは、終わりなき世のめでたさよかもしれない。

本当のめでたさを実感するのは全てが終わった時だろう。それまでは懸命に生きなければならない。大好きなフランク永井の低音が流れている。苦難の時から栄光と金を手にした歌手も失意の時をはねのける力が無かった。自殺に失敗しても長き歳を生きた。

そうして考えて見ると本当の自分を最後に支えて呉れるのは、愛とか思いやりではなく献身的な無償の支えかもしれない。「東京ナイトクラブ」今は昔の懐メロを聴いていると、今日の価値観とか現状認識が本当に危ういと思いながらも、例外の人と思いの丈を探るしかないのだろう。

義務教育に道徳のカリキュラムが取り入れられて久しい。親父達はそんな教育は学校ではなく地域と家庭で学んだ。学校で何をどう教えているの?大体、道徳観がどれだけ人を幸せにしたのだろう。思いやりの無い国のリーダー達がどれだけこの言葉で人の生き死にを踏みにじったのだろう。今、その反対の大人達が子供達を不幸にしている。

子供達が不幸ではなく弱い立場の人が不幸になっている。自業自得と言うには余りに国を危うくする。公の場で人の迷惑顧みず、人の思いを無視して我が物顔の振る舞いをしたとしても、それで当たり前田のクラッカー(藤田まことと白木みのるの若かりし頃のコマーシャル)

己と企業の社会的責任はこれから問われるだろう。モラルとか倫理を軽々と建前だけを主張しても化けの皮は簡単に剥がされる。今、テレビの前で慟哭(どうこく)の嗚咽(おえつ)を流している社長は人事ではない。間違いなく信用と再びの時を取り戻すのはないだろう。

その事を忘れてはならない。来年は間違いなくその事が問われるだろう。年の瀬を感じさせない陽気が続いているが、木枯らしの時は息を潜めて入るに過ぎないだろう。75兆規模の経済対策?政治家と行政がどんなに大盤振る舞いをしても、歳の瀬の厳しさはこれからだろう。

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2008年12月16日 (火)

左手のしびれは無くなったけれど・・・

このブログを書き始めた昨年の5月。左手のしびれが気になっていた。近くの整形外科で診断を受けると首の骨の間隔に詰まりがあり、血管を圧迫しているとの事。対処療法は首の牽引。その処置を数回受けただけでそのままになっていた。いつの間にか自分なりのリハビリで全く気にならなくなっていた。しかし、原因が改善された訳ではない事を最近痛感する。

背中の首と腕の付け根から筋肉のカサカサ感が気になって仕方がない。カサカサ感と言われても分からないだろうが、単純に言えば肩の疲れ、ゴワゴワ感、首の付け根から下に皮が筋肉から剥がれる感じ?マッサージしてもらうと気持ちが良くなるかもしれない。

筋肉疲労ではない。皮が浮き上がり垢(あか)ではないのにバリバリと剥がれそう。スパイダーマンではないのに、背中にそんな違和感。でもコリは感じても両腕を曲げて前後左右に回しても痛みは無い。心地良ささえあるが段々首の回りが悪くなる。それでも痛みは無い。

首を回して見るとまん中から、ぐりぐりと不気味な音がする。メタボな体は下腹部だけでなく腕と首の付け根の僅かな脂肪まで贅肉を付けているのだろうか?本当にヤバい。運動をしないツケがこんな容(かたち)で健全な肉体を蝕(むしば)んでいる。

若い頃、京都河原町でヤクザさんにスカウトされた立派な背中は、だらしのない食生活と生活習慣で老いぼれてしまった。まだまだ体を鍛えれば青年の体は無理としても、壮年の体にはなれると思っても、胸の凹みに反比例した腹の出っ張りを改善しなければ本当にアカン。

試しに両目を瞑って(つぶって)片足立ちをして見ると、数秒と立てない。空手の型の練習をしていた頃にはこんな事は無かった。否、気付かなかっただけかも知れないが・・・。今の仕事場では椅子に座っている事が多いが、最近、これが少なくなり片足立ちをするようになる。

面白いと思う事は人間、楽をしょうと思えば楽は出来る。階段ではなくエスカレーターの方が楽で良い。それでも楽は為ならずとは先人の言葉であるが、本当にそう思う。人間の体は本当に良く出来ている。しかし、どれだけの人がその事に気付き、感謝しているだろう。

その事を思い知る。これから年末に掛けて不規則な生活をしても、もう一度、体を絞れ、その肥満体質を変えなければ、倒れる時も遠い先の事ではない。背中の筋肉疲労で無いゴワゴワ感はその事を語りかけている。

両手を広げてラジオ体操を力一杯、明日からやろう。ゴルフのスイングをやろう。片足立ちをして両手を広げて見よう。(これは無理だけれど、気持ちだけ。手は前のテーブルをつかんでも)。そうすれば背中の違和感も少しは和らぐだろう。

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2008年12月15日 (月)

今年もあと半月、親父の仕事日もあと7日。

今日も穏やかな1日。年金の支給日。仕事は休み。「結構なお身分で」皮肉を込めた愛想を受けても、不快の想いはない。別に反論する言葉もないが申し訳ないとも思わない。今日の多くの出来事と現象は何も一朝一夕の結果ではない。多くの事に過程がありその深い検証無しにその場限りの言葉を並べても、何の意味もない。

この事は親父自身にも言える。今年1年、このブログでも君に対しても多くの言葉を発したがどれだけの重みがあり、役に立ったかと思うと甚だ(はなはだ)疑問である。逆効果以上の不快感も少なくなかっただろう。思いの丈を思いのままに語る時、全てを受け止める優しさは限られて人でも困難かもしれない。その事を今年も痛感する。

諸行無常と言われても分からんかも知れないが、宇宙万物の無常を考えればその程度の事は取るに足りないかも知れない。拘り(こだわり)の思いが無ければ感情の起伏も少ない。些細な事に苛立ちの思いを重ねる生き方は親父らしいと思って来たが、仙人の域に少しでも近づきたいと思うなら、一歩前進しなければならない。

それにしても今年は色んな事があった。怪我や病気をしなかっただけでも感謝しなければならない。今年は初詣もせず正月3ヶ日も仕事だった。大みそかも仕事。それでも仕事が出来る思いの他に何もなかった。そのお陰で戦力外となっても失業の日々を重ねる事は無かった。

昨今、景気の冷え込みで雇用不安が現実の問題となっているが、本当の厳しさはこれからだろう。マスコミも多くのコメンテーターも尤もらしい解説はしても、打開策の見通しもない。自分で自分の生活の糧を得るしかないだろう。それすら出来なくなれば活路はないだろう。

今回の不況はこれまでの景気判断では語れない、この国の経済構造の転換期だろう。親父が若い頃から言われた「内需拡大」。この国の経済と政治の変革でどれだけの変化があったのだろう。ノーベル賞の分野でも物理や化学の受賞者は出ても、経済ではない。

この国の経済学者がこれほどに国の行く末を指し示せないのは、アメリカの経済理論を越える学説がこの国に打ち立てられ無かったのだろうか?資本主義、自由主義、自由競争、多くの言葉が建前で、デモクラシー、フリーダム、多くの夢物語を語っても現実は、閉鎖的で不合理、足の引っ張り合いでは今日の結果もアメリカだけの所為ではないかも知れない。

この国の技術革新は目覚ましく、世界に誇れる。技術立国、技術大国と言われても技術だけでは国の経済は成り立たない。どんなに優れた技術でも何時までもは競争には勝てない。常にライバルとの競争。生き残りは簡単ではない。

これからの社会は何が必要とされ、何が不必要になるのだろう。問われるまでもない。必要とされる能力。それが無ければ使い捨て。労働力の固定費が変動費に変わった時、企業のコスト低減は出来たとしても、経済の活力にならない事が経済学者の問題提起すらならなかったのは、この国の大きなミステイクだったのだろう。この代償は少なくない。

言うまでもなく国際競争力が無ければ国の経済は成り立たない。それと同じぐらいに国の経済は生活困窮者が多くなれば、深刻な危機となる。総論賛成、核論反対と野党の問題取組を批判した政府と全く変わらない。景気に大きな陰りが出ればどんなに国際競争力が強くても、国の経済が成り立たない事を理解しないのだろうか?

この原因の一端は政府だけでなく、組合の責任でもある。組織の利益は組合員の利益だけで無い事をどれだけ理解したのだろう。今でもこの閉塞感を打破するには賃上げが必要とか言われているが、これからはそうではない。如何にして労働価値の分配を多く出来るかだろう。どんなに企業の論理を振り回しても、企業の製品が売れなければ言わずもがなだろう。

しかし、問題はそれほど簡単ではない。国内で物が売れなくても国外で利益が出ればそれで良しとする企業も少なくない。グローバルと言われる社会はそんな社会かも知れない。それでも本当にそれで良いのだろうか?この国の経済はこのままで良いのか?間違いなくその事を問われている。人の事はどうでも良いと思う人が多くなれば、必ず国は滅びる。

今年の歳の瀬はあたたかだけれど、野宿する人も少なくはないだろう。景況判断が悪くなったとしても驚きはない。生活の深刻さは今に始まった事ではない。その事をどれだけの人が認識しているかが問題だろう。物が売れない今年の年末商戦は一層深刻さを増し、選別の不安は小さくない。本当に歳の瀬は慌ただしさだけではないものが重なる

今日までの休みが終わり明日から3日の仕事。その後3日の休み。それでも仕事があるだけ親父は恵まれているのだろう。今日は天気もよく布団を干して洗濯をして地方税と国民健康保険を払う。昨日は久しぶりに山登りをしたが、今日は400段の階段を登る。

メタボな体形は1日位の山歩きでは変わらない。これからは気合を入れて歩く。久しぶりの階段は昨日の効果?で息の上がりは無かった。この前の時が何時だったか思い出せないほどご無沙汰している。汗もかく事無く心地よい。ゆっくりゆっくり石段を踏み付ける。

昨日と同様、展望台で何も考える事無くぼんやりしていると、六甲の山並みに掛かる日差しが雲間から漏れていた。後から来た若者が一眼レフのカメラでシャツターを押していた。来年の事を語るにはまだ早いけれど、雲の合間に差し込む日差しは弱くは無かった。

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2008年12月13日 (土)

今年の後、半月。久々の山登り。

先月から折角の減量がリバウンドして、腹が出てきた。それだけ運動不足と食い過ぎだろう。減量は難しいとか言われるが、タバコもパチンコも止めた親父にとって不可能はない。そんな過信が仕事と生活環境の変化と共に、元の木阿弥(もくあみ)となる。

最近は健康で文化的な生活をしていても、何が起きるか分からない。それだけ不確実な日々を生きているのだから、せめて食い物ぐらい好きにしたいと思っていた情けない思いが下腹部の膨らみとなる。「あんた、何ヶ月」と母さんからからかわれ、腹を叩いて男は産めないと笑った昔が思い出される。

親父が太ったのは仕事が遅くなり、腹を空かせて我が家に帰り満腹の生活を繰り返したから。今の生活も大差ない。変わった事と言えば食事も侘びしくなっただけ。それでもアルマイトの鍋ひとつの献立で文句も言わず(言えないだけ)、良く辛抱している。

そう思えば腹がでた位で、ガタガタ云われる事もないと開き直っても、流石にこれではアカン。今日は休日。予定を変更して近くの山に登る。標高300メートル足らずの山も一気の登りは息が切れる。最近はもっぱら山裾で引き返していた。その罰が当たる。

今住んでいるこの街は大阪平野の北の端。この奥は能勢と宝塚、六甲の山並みが重なる。少し足を延ばしただけで森林とは言えなくても、木漏れ日の中を歩ける贅沢は田舎の生活と信州の山裾を思い出す。都会人の最大の不幸は山並みの感動が無い事だろう。

最近、久方ぶりに電車とバスに乗るようになりマナーの無さに閉口する。親父の声のでかさを言われたが、それ以上の振る舞いを見るにつけ頭に来るが山に来ればそれも無い。静けさと心地よい空気を吸いこみながら、ひたすら歩く。今日は一番ハードなコースを選択する。

山裾のバス通りから間もなく、アスファルトの道は急な登りとなる。でも暫くは住宅地。それでも山登りの入口は階段で始まる。何年前だったろう?早春の時、アマチュア、カメラマンンの指差す先にはウグイスが居た。今は初冬の時、冬の始まりには程遠い、暖かな午後だった。サアーいくど。掛け声だけが元気だった。

両側が桜の石段も花が無ければ趣も無い。だんだん息が上がり足は上がらない。前に来たのは桜が散り始めで、腹も凹んでいた。息の上がり方も今日程で無く足取りも軽かった。山裾までの元気さも何処やら息苦しい。太り過ぎとはかくもヘタリかと叱咤激励しても体が悲鳴をあげる。

石段が切れた時、登山道の脇に腰を下ろし手にして来た飲み物に口を付ける。石段の下界の先には歩いて来た街並みがあり、その先に離陸した飛行機が高度を稼いでいた。大阪空港は離陸と共に大きく左に旋回する。今の職場は丁度その下。4年前の職場はその先の水平飛行が前方に微かに見えていた。

一服して息が整うと又、元気が出る。この先はダラダラとした上りが続き、2度の急な登りをゆっくり進めば展望台は待ち受けていた。6年前の時、淡々とした思いで眺めていた池田の街は今回も静かで物音が無かった。

しばしの時。無声の世界に多くの想いが重なっていた。もし翼があれば鳥の様に一気に羽を広げるのだろうか?カラスは夕暮れになるとこの山に戻って来るが今は何処に入るのだろう?物音が無い空間に邪魔が入る。男2人に女が一人。女の声が何故か響く。耳障り。

腰をあげる。君と来たドライブウエイの駐車場には出ず、左に折れくねくねとした山道を下る。少し上に車道があり車の往来がある事が全く感じない。帰りの道は息切れはなくても地に足が付いていなかった。何故か体調が悪い。原因は下腹部の脂肪だろう。皮下脂肪ではないメタボな脂肪。これを削ぎ落とさなければアキマヘンえ、そう言われていた。

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2008年12月11日 (木)

今年もあと半月、色んな事があったけれど・・・・

賞味期限切れ。戦力外通告。雇用の危機。財源の見直し。多くの言葉が問題を提起しているけれど、今年もあと半月。国民の多くの支持を失って政治の求心力を失くしたリーダーにマスコミのコメンテーター達ですら、既に改善策すら提議出来ない。それでも尤もらしい口先だけの言葉を重ねながら、為す術と改善の糸口が見当たらない。

歳の瀬は何かと気忙しい(きぜわしい)が、今年は違う意味で追い詰められている。アメリカの金融危機が現実の問題になった時、今日のこの国の状況をどれだけの人が予測しただろう。アメリカの経済の落ち込みは金融のプロが、金儲けの手法として編み出した商品が信用不安をきっかけに暴落しただけ。日本の影響は少ないと言われていた。

エコノミストと経営の判断が甘いだけでなく、その代償が雇用の縮小となっている。アメリカは来年の1月中旬、オバマ新大統領の登場で経済と政治の問題が、進展すると言われているがこの国はどうなのだろう?レッドカードを突きつけられても退場出来ない有様は何時まで続くのだろうか?

今年もあと半月と言われても、実感が無い。正確に言えば現代問題になっている多くの事が来年の課題として、先送りになるだけだろう。無常、ひどい、無責任と言われても多くの人にとって関係の無い事だから。本当に自分に関わりが無ければ人事に思える。

先日のお休みの日、大阪のかってのスラム、あいりん地区に出掛ける。親父が足を踏み入れたのではなく、若いころ見た風景との違いが気になったから。街は昔の面影が無かった。と言うより街がきれいになり、親父が若い頃見た酔っぱらいが居なくなっていた。

本当は厳しい現実の中で、その日暮らしの生活すら出来なくて路上にたむろする、多くのアルコール中毒の人を予感したが、全く違っていた。違う目的がありそこくさに堺に向かう路上電車に乗ったが、市電が無くなりスラム街も無くなったのだろうか?それは違う。そんな感じを振り払う事は出来なかった。

大阪、釜が埼、あいりん地区。東京では山谷。親父の若い頃にも住む家すらない生活困窮者はいた。それでもその地域は限られていた。その地域に居ても今は社長になった人もいる。でも今はどうなのだろう?ホームレスの人が今年の冬、どんな思いで年を越すのだろう?

生産と在庫、調整と見直し、この国の経済発展の歴史の中で繰り返されたサイクル。しかし、発展の余地があった親父の若かった頃と今は確実に違う。トヨタとソニーの教訓はこれから多くの課題を残す。生産が過剰となった時その受け皿を他が担う。そうしてこの国の経済は成長を為してきた。これが今、問われている。

オバマ新大統領は雇用の創出の為、第二の二ューディール政策を取るとか。どんな政策?学校で習った事は失業者に仕事を作る。ダムの建設。港の建設。高速道路の建設。公共工事。しかし、学校で習った事は全てが正しくは無かった。結果は財政の破たん。

オバマがその教訓をどう学ぶかは未だ分からないが、この国はどうだろう?同じ景気対策、雇用対策を取るのだろうか?全く分からない。そればかりでなく国民の支持の無い総理にもはや打開策も持ち合わせていないのかも知れない。

こんな大変な時、皮肉ではなく国の行く末に立ち会える事は、今までの苦渋の証かもしれない。親父が今生きて居られるのは君のお陰であり、多くの幸運の重なりかもしれない。8年前の年末は鳥取、木次の寒い山の中に居た。あの時の体験、そして多くの思い。

今年の大阪は未だ雪の時が先の話だが、あの時の寒さはまだ序の口だった。親切にしてくれた広島の現場監督、まだ現役だろうか?宿で測量の人達と忘年会をしてその時、広島のカキ御馳走してくれたなあ。あんなに肉厚のカキにはその後、再会していない。

とにかく笑えれば、あっあっはと笑えればとFMの音楽は歌っているが、自分の生き方は自分で決まる。本当の魔法は自分で自分に掛ける事だろう。どんなに哀しい思いをしても、苦しい思いをしても、人にすがりついたとしても明日の自分を決めるのは、自分しかいない。

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2008年12月 8日 (月)

大本営発表 本日未明、帝国海軍は南太平洋上にて・・・

戦闘状態に入れり。この言葉の意味を知る人は少なくなる。親父が生まれる3年前のこの国の大きな転機。中国への侵略行為の制裁を受けた大日本帝国は、他の選択は無かったと歴史の専門家の多くは口をつぐむ。「何故、無謀な戦いを選択したのか」。この国はその答えを明確にしないまま、国民総懺悔(ざんげ)なる訳の分からない言葉で戦争責任を曖昧にした。

親父達は中学と高校の社会と歴史の時間、先生からその無責任を教えられた。さすがに今の教育ではそんな事はしていないが、当時の日教組の歴史認識は本当に間違っていたのだろうか?そうであるならどうして長い間、そして今日も尚(なお)、その事が明確にされないのだろう。間違いなく先の無謀な戦いは風化し、かけがえのない尊い命と営々と築き上げられた財産は忘れ去られている。

8年前の土方仕事で愛知揖斐川の上流に行ったとき、民宿の客間には特攻で死んでいった若き青年が、先行く不幸を親父とおふくろに詫びた最後の郵便が額に入れられていた。「国を守るために命を賭ける。命は惜しくないが先立つ不孝をお許しください。こんな戦いを2度としない為に、弟にはしっかりとした教育をさせて下さい。」と書かれてあった。

あの時の身ぶるいと、込み上げた思いは今でも忘れられない。どんなに無念だったろう。彼だけではない。本当に多くの若者と尊い命、戦いとは無縁のどれだけ多くの女性と子供達が死んで行ったのだろう。今、テレビで東京大空襲のドラマを放映している。

ひどいね。ドラマとは言え直視出来ない。戦争に大義名分はない。東京大空襲と同じ方法で全国の都会が焼き払われた。それだけでは済まなかった。広島と長崎の原爆投下。日本の戦争責任だけでなく、アメリカのそれも問われる事は無かった。戦争は綺麗事ではない。しかもやって良い事と悪い事の区別さえできない。裁かれるべきは誰だったのか?

その事を明確にしなかったその代償は今後も問われる事だろう。親父の親父が若くして職業軍人の輝かしき証を立てる間もなく、田舎に帰って2度と銃を手にしなかった思いがこの歳になってやっと分かる。戦いの愚かさ、戦いの無益、そして悲劇。戦いは人殺しを合法化しているだけだろう。

イラクとベトナムでも使われた兵器の始まりも、東京大空襲で使われた焼夷弾がナパームであった事は親父でも知らなかった。兵器に石油のゼリー。木造家屋密集地の焼き払い。それは何を意味したのか?国民の戦意を失くす?そんな理由がもっもらしく長い間、語られていた。

今でも同じかもしれない。テロとの戦い。その為にどれだけの無益な人殺しをするのだろう。ベトナムの教訓は生かされていない。ベトナムでどれだけ多くの人命が失われたのだろう?アメリカはその教訓を何時になったら、学ぶのだろう。

テレビのドラマはもうすぐ終わる。この放送は3月10日東京大空襲の日の再放送。長い間、語れなかった事実は12月8日、この日に見れた事に感謝しなければならない。かって何が起きたのか、そして何故無謀な戦いをしなければならなかったのか?考えなければならない。

戦後、長きに亘り(わたり)栄華を極めたアメリカとこの国の関係も、これからは変わるだろう。経済と軍事の大国は大きな転換の時を迎え、繁栄から身の丈に合った生き方を問われる。そうでなければ歴史の教訓は余りに惨め過ぎるだろう。

アメリカの繁栄は国の豊かさであるが、それでも限りがある。今日の繁栄は実態経済の伸びから金融に特化して、貯蓄ではなく借金の膨れだったのだろう。日本のバブルは土地神話(値下がりは無い)だったが、アメリカの今日の金融危機は、経済構造そのものだろう。

借金しても物が買えれば、誰も貯蓄の重みは感じない。アメリカの成長がこれまでに続けたられた要因は、ライバルを叩き潰して来たからだろう。独立戦争、南北戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争、ここまでは思いどうりだっただろう。しかし、長くは続かない。ベトナムで負け、イランで負け、そしてテロとの戦いでも負けるだろう。この国もそろそろ、自国の利益を真剣に考える時だろう。誰が考えるのだろう?

誰も考えなくても、この国が60年前に焼け野が原になり、南の島、南のジャングル、南の海に多くの遺骨が眠っている事を多くの若者が知らなくても、時代は変わる。何時までも同じ事が続かない事を賢人は思い知らなければならない。

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2008年12月 6日 (土)

冬将軍がやって来た。でも本当の寒さはこれからだろう。

仇の様に穿いて(はいて)いるズボン(黒)に、汚れが出てきた。最近はお金に困っていないのでズボンぐらい買えるが、威張れるほどでも無い。急に寒くなり防寒着も必要になって来た。近くの前の職場の衣料品売り場に行けば、何時でも何処でも好きな物が手に入れられるが、お気に入りは簡単には手には出来ない。(こだわりが無ければ・・・・)。

親父の場合、恥ずかしながら腹が出ているので普通サイズは駄目。太めコーナーご用達。サイズが合えば次は肌だわり、そして色、最後は着心地と値札。結構うるさい。だから自由に見れる、選べる売り場はGoodです。衣料品も最近メイドインチャイナが多くなったが中にはベトナム、タイ、マレーシアも少なくない。安くてお気に入りを手にすると親父でも嬉しい。

最近、衣料品の売り場に活気が無い。何故だろう。理由は多くは無い。自分の身なりにお金を掛ける余裕が無くなっているのだろうか?一時期隆盛を誇った全国展開のU社が、安売りだけでは利益の確保が難しくなった時がある。それから5年後の今年、他を圧倒したのは学習の成果に学んだからだろう。

物を売る、物を買う。この単純化された経済の基本は理屈や精神論、ましてや思惑、宣伝では越えられない。安売りだけでなく価値のある物を売る。価値のある物を求める。その単純明快な消費行動はそれ故に、何が問題なのか見えにくいのかも知れない。現実にどんなに立ち返っても、見えない物を見る感覚は限られた人しか手に出来ないのだろう。

今、食の安全がどんなに求められても、簡単に手には出来ない。生産地偽装とか有害物資の混入とか賞味期限とか多くの事が簡単に口にされても、現実の厳しさを知ればそれがどんなに難しい事かが分かる。生産地偽装が何故、行われるのか?考えて見れが良い。国産神話の中に対価の問題はない。中国産のウナギに国産と表示が出来れば、こんなにぼろい話は無い。それが違法と分かっていても簡単にばれなければ、絶対にやらないとどれだけの人が言えるのだろう。中国産の安さの売りはその程度と言えば多くの人が眦(まなじり)を上げるだろうが、国産品にどれだけの価値を見出しているのだろう。、嗚呼(ああ)無常。

かく言う親父もキーウィかバナナぐらいしか輸入品は口にしない。牛肉は国産、豚も同じ。野菜は150円のカット野菜の詰め合わせ、モヤシは39円(何でこんなに安いの)、キャベツも白菜も大根も4分の一。シイタケは大分の本物は売ってもいない。ラッキョウは大分産、これは高いよ、400円。でも大分産の田舎つくりのラッキョーはそれだけの価値があるよ。

ほとんど毎日手にする柿は和歌山産が多いが、近くの山で採れるのも安くて新鮮。りんごは長野、青森直送が在る時は嬉しいが時々、当り外れがある。包丁で割った時、芯に蜜(みつ)があると、大当たり。一般的に野菜は安いが湯煎(ゆせん)しただけで、薄口醤油で何よりの御馳走になる事を、最近の主婦さえ知らない。(信じない。お試しあれ)

親父が健康な訳、お分かりか?先月、新しい職場で昼の仕出し弁当(じゃこ和風)食った時、「ゆっくり食わんといかん」と言われた。新人研修中親父の会社では、教育担当がはしを付けたと思ったら御馳走さまとぬかしていた。今は1人で1口30の噛みしめに心掛けている。(おまけ)。食事は人の体を大きく変える。病気に気配りはしても食事に気を付ける人は少ない。自分で買い物をするようになって母さんの思いが重くのしかかる。様ァ見ろと言われても返す言葉が無い。

これからが本番でも今夜は是まで。また明日。

長々と親父の買い物を書いたのは、これが親父の健康の元です。食に対する思い入れが強く美味しい物に目が無ければ、食い過ぎもやむを得ないのかも知れない。ここが肥満とスリムの分岐点。自分の体を姿見の鏡に映して見れば本当に恥ずかしくなる。

景気の悪化も同じ、企業の今日の対応も同じだろう。背に腹は代えられないとか今日的現象は100年に1度あるかないかとも言われるが、本当にそうだろうか?人のせいとアメリカの金融危機を口にしても状況は何も変わらない。自分の自分達の贅肉にどれだけ切り込めるかが問われている。

N社、プレミアム、ファクタりー?言葉の意味が分からないままに宣伝文句がどんなに踊っても、これから年末の年越しは本当に厳しくなるだろう。警察が京都の家庭裁判所を捜索?オイオイ、どないなっているんや?これまでも無い事がこれからは何でも有りになるだろう。

10時になりました。運動に出掛けて来ます。

昨日までの寒さが嘘の様な小春日和の日曜日でした。これで今回の寒さも一段落でしょう。師走の時もアッと思う間もなく過ぎてしまいそうです。年末までの慌ただしい一時、心静かに過ごさなければならない。歳の暮は色んな事がありますが今年は本当に大変でしょう。

今回の不況の嵐は暫くは収まらないだろう。それどころか名古屋、東海が駄目になった時、何処が盛り返せるのだろう?政府もこのままでは景気対策の責任だけでなく存在意義すら問われるだろう。完全に国民の支持を失った時、どんなに多くの事を語っても退陣しかない。その代償の大きさを考えた時、なりふり構わず財政の赤字を考える術も失うのだろう。

何を為すべきか?当面の景気対策の要は雇用対策だろう。年末から年明けにかけて仕事と住む所さえ失う派遣と期間労働者の数は、マスコミが報道する以外に行政が正確に把握していない。社会主義国家と違いこの国では政府の関わりは雇用に関しては多くは無い。

失業者がどんなに増えたとしても、政府、行政には為す術がない。その結果景気の低迷だけでなく社会不安と消費の成り行きに大きな影を落とすだろう。大阪では天王寺公園の周辺、東京では山谷のドヤ街はどうなっているのだろう。

これから本当に寒くなるが仕事と住む所を失えば、生きて行く術も失いかねない。一度失った物を再び手にするには並大抵の苦労では可能にならない。長い間普通に生きているとその感覚すら失くしてしまう。何とかなるとか如何にか出来ると思っても、安定の時は再び手にする事は無い。その厳しさが失わないと分からない。

問題の本質を見誤ると天下の大企業でも一気に減速が掛かる。そのしわ寄せを何処に求めるのか、言うまでも無いだろう。どんなに不合理な事でも組織の道理は非情である。その事をどれだけ知ったとしてもマイナスではない。

一年間、全くやらなかったパチンコ。近くの店を覘く(のぞく)事も余り無いが、これから年末に掛けてカモが多くなる。お店は出玉を少なくしても客足が絶える事は無い。経営者は笑いが止まらない。パチンコ屋でお金を稼ぐ根性があれば何でも出来ると思っても、この不況下ではそれも儘為らぬ人が少なくないのだろう。

少しの知識と余裕があれば、その事は誰でも分かる。それでも貧すれば何とかやらで手軽に小銭ならぬ生活費を稼ぎたいと思うのは、どん底まで落ちなければ分からないだろう。アメリカの経済はそこまで来ているのだろう。

アメリカの自動車メーカービッグ③(GM、フォード、クライスラー)も政府の資金導入に全てを託す。それでも生き残りに予断は許されない。アメリカの国内市場の厳しさは何も変わっていない。高級車だけでなくアメリカの富の象徴はこれからなし崩し的に失われるのだろうか。

最近訳の分からない事故、事件も少なくない。金の為なら何でも出来ると思っているのだろうか?平然として強きに立ち向かう根性がなくても、抵抗も出来ない弱者に口と手を出す。体に気を付ける事に注意しても本当に力が無ければ無力です。

先日、この歳で体を鍛えていると言って鼻で笑われた。笑うが良い。女にだらしがなくても自分の体力には自信を持っているのだろう。しかし、天、地、仁なる言葉を忘れてはならない。これからどんなに厳しい時を迎えても最後に問われる事は、健全な肉体と精神である。親父もまだ若い。口先だけで何とか出来ると思っていたら大きな間違いである。

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2008年12月 4日 (木)

本格的な冬将軍が来る前に。

今度の週末は2ヶ月先の気候になるらしい。最高気温が今日の最低気温以下。10度を切るらしい。親父は南国九州大分の生まれだけれど、冬の寒さには堪えられる。母さんが居た頃でも風邪を引く事は珍しかったけれど、一人になってその傾向に変わりは無い。それどころか風邪を引く余裕すらない。今年は爆発的にインフルエンザが流行の気配だけれど、家に帰ったらうがいと手洗いは欠かせない。

大阪のお笑いに「アホは風邪を引かない」と言われるが、逆に言えば風邪を引くのは賢いからでも無い。アホとけなされアホと馬鹿にされても本当のところは、睡眠、食事、健康管理を人知れず心掛けている人だろう。そんな人を何でアホと呼ぶのだろう。アホは他に一杯居る。

関西でアホとは信頼の人で無いといえない。しかし、最近電車、バスに乗りはじめて全くの他人がアホになっている。言ってやれば大概の人は素直に認めて改めるが、中には逆ギレされる事も少なくない。その時の不快感を思うと余計な事は態度にも表わせず、知らん顔をしている。

最近、仕事の関係で空手の練習をしていないが体は鍛えなければならない。唯、歩くだけでなく速歩、漫然と健康管理ではなく肉体の美の追及。親父の言葉には無理があるけれど背筋を伸ばして胸襟(きょうきん)開いて雄々しくあるのみでしょう。

今日、帰りの電車の中、始発駅、空いた車内。出発を待ちながら目を瞑っていると、少し離れた席のおばさんが袋の中に手を入れてゴソゴソしている。「オイオイ、」。何をしているのかさり気なく観察すると、何か食っている。何を食っているのか?ピーナッツ。皮が飛んでいる。猿でも電車の中ではやらないだろう。そんな事を考えていた。

到着駅で電車を降りるとき、そのおばさんは1つ前の駅で降り座席には皮のみが散らかっていた。電車の中で平然として物を食うその代償は大きい事に気付いていない。空間を浮遊する細菌を一緒に飲みこんでいる事に、全く気付いていない。

これから寒くなる。風邪は万病の元。しかし、普通に予防すれば人に不快な思いをさせる事は無い。朝、早くなり帰宅は早くなった。夜も早寝は出来ず睡眠不足。それでも寝過ごす事は無い。それが仕事だからである。風邪を引いたらアウトだからである。

風邪は万病の元と言われても最近の健康管理はお粗末。それで干支が一周。良く生きて来られたと思う。不摂生な食生活をしてもメタボなお腹になっても血圧は高くても、生まれつきの不整脈が高齢化と共に息を吹き返したとしても、高脂肪高何とかでもどっこい生きている。

体調に異変が起きると進行は抑えられても、回復は多くの困難が伴う。曲がりなりにも元気な時はその事が分からない。長く生きたくないとか生き恥はさらしたくないとか、良いカッコをしている人ほどその事が現実にならないと分からない。人間それ程に哀れである。

幸いな事に親父の体力は決定的に悪くは無い。心配した脳と眼に先天的な強さがある。内臓は食い過ぎ太り過ぎのマイナス要因が大きい。この状況が変わらないといずれ倒れるだろう。巨木と言うには余りにおこがましいが、もう少し長生きがしたければ体重を減らすべきだろう。

最近、運動不足。せっかくの減量も止まりリバウンドしている。姿見の鏡を見るまでもなく腹を触れば良く分かる。このままでは間違いなく息切れ動悸で「救心」の薬を口にした、母さんが亡くなった直後に戻るだろう。あの時は間違いなく今よりは痩せていた気がする。

原油の価格が元に戻りつつある。30ドルそこそこの価格が100ドルを超したのが異常だった。最高値が120を超えてもまだまだ上がると多くの人が予想した。あれからどれ位の時が流れたのだろう。経済の初歩を無視した金融の暴走、あれがインチキでなくて何だろう。

ガソリンの価格も自動車税の論議が何時の間にか、過去の話になっている。177円とか言われたリッター価格も120円を切り100円台に突入しても、車離れは元に戻らないだろう。石油元売りの再統合が進み、大手の価格統制が出来るまでこの状況は変わらないとは思わないが、過ぎたるは及ばざるがごとしとはこの事だろう。思惑はあくまで願望。いつかはこんな結果になる事をどれだけの人が、教訓に出来るだろう。

ホンダのFー1撤退も関係者の思いを無視して、コメンテーターが尤もらしい解説をしている。本田宗一郎の話をどんなにしても時代の流れと、人の価値観を流し去る事は出来ない。カーレースの意味、意義、価値観が問われている。経済は言うまでもなく人の生き方と関わりに非情である。

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