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2008年9月 1日 (月)

眼球の検査、きーちゃん、そして

今月も今日で終わり。明日から9月。皮肉にも昨日までのはっきりしない天気も、今日は嘘のように真夏の日差しを受ける。休みの3日目、早起きして所要を済ませる。これからの高齢化時代を生き抜く為の条件は健康。年老いたとは言え自律しなければならない。

10年先の事は分からないが、5年先の自分の惨めな生き方が見える。此の儘では間違いなく格差は広がるだけでなく、多くが生活の立て直しを迫られるだろう。噓だと思うならこれからの景気動向に注目し、浪費を慎まなければならない。常識的に見て現在の景気は余りに厳しい。

休みの初日、近所の掛かり付けの眼科に行く。左の眼がうっとうしく右は黒眼の淵が微かに見える。10年前から充血の度に診断している先生が、表情も変えずに検査の手順を進める。しかし、内心で笑っている。「左がうっとおしいのは白眼の潰瘍(かいよう)が微かに剥がれている。右眼の黒眼の淵は左の眼が無理をして見ている。」いずれも心配はない。

検査の結果を簡潔明瞭に説明をする。それでも気になって聞いて見る。「歳の所為ですか?」「歳の所為ではない。歳にしては眼が活きている」お世辞でも嬉しい。両眼のカラー映像を見せながら、毛細血管がしっかりとしていると言われる。1年前の頭の輪切りのレントゲン白黒写真を思い出す。「親に感謝しなさい。血管の丈夫さは自己管理ではない。」

両親は死んでしまったが健康な体は生きている。母さんが亡くなる前から太り始めていたが、今ほどではなかった。こんなに太ったのは食い過ぎ以外何ものでも無い。運動不足で食事量が多ければ必然の結果だろう。仕事をしていなかった事を幸いに太り過ぎた。

今、メタボ以上の体重と血圧は順調に下がっている。自己管理の難しい頭と眼の血管は親から丈夫な物を頂いている。その事に感謝しこれからも生きて行かなければならない。人間には無限の生命も力も金もない。その事が分かれば生き方も変わるだろう。変わらなければ間違いなく薬に頼るしかないだろう。その事さえ分からなければ長くは生きられない。

眼医者の後、思い立ってキーちゃん(きさら)を訪ねる。4年前の突然の別れ。1年近く、この親父になついて呉れたのは、何だったのだろう。まだ年少の幼子は「おじさん、お名前は?」とハニカミながら聞いてきた。「くーちゃんです」。クーチャンとオオム返しに答えると忘れる事は無かった。5つ違いの姉さんがユーリ。キイちゃんと会うのは昨年の暮以来だった。

小学4年生に成っても幼き面影は在り、それでもシャイになっていた。今更クーチャンとも言えず、親父の言葉に答えるだけだった。「体に気を付けて大きくなれよ。しっかり勉強しろよ」それだけで充分だった。姉さんは中学3年生。塾に行っていた。

近くの床屋で散髪をする。これも昨年の暮れと同じ行動。違ったのは帰りに店の息子の送って呉れた事。郊外の田舎のお店では街中とは違うサービスが求められるのだろうか?前、仕事していた店は、立派な建物とは裏腹に活気がなく、帰りの道の片側に24時間営業のスーパーが開店していた。床屋の主人によれば繁盛しているとか。駐車場の車も多かった。

高級住宅地と言っても全てが金持ちではない。夜半に買い物をする客もいるのだろう。この街が大阪を代表する住宅地として君臨した時は、今や昔の話になっている。これも時代の流れであり上流と下流の分岐点は僅かな違いかもしれない。しかしその差には天と地以上のものがある。この国がどんなに栄えてもこの差は如何ともし難い。願わくばせめて中流でありたいと思うささやかな気持ちも、容易には手にする事は出来ない。その事を痛感する。

キイちゃん達が大きくなった時、親父達は居ない。その時のこの国を支えているのは誰だろう。国の形は見えないが自分たちの生活は、大丈夫だろうか?案ずるより産むが易しかも。しっかり勉強して頑張ってください。これからの社会は経済的だけでなく、知識と知恵が多く問われるに違いない。

昨日、又、靴を買った。この前(どれ位前だろう?数か月?)買った5000円の靴が駄目になる。左の親指とその付け根が当たる部分が凹んで、外反母趾?(がいはんぼし)状態。むくみ感がする。安物買い?最近の靴は親父の様なメタボな体重を、支えられないのだろう。

今回手にした(足にした)靴も、間もなく凹むだろう。人間の肉体は美しいとか言われるが、親父の左足は80kgの体重を必死の思いで支えているのだろう。本当は息子の様にもっと高くて丈夫な靴が求められているのかもしれない。歩く事が求められると良い靴が必需品かもしれない。靴の重みはそれ程に大きい。

昨年の暮れからこの仕事を始めて感謝する事は、働きながら減量の喜びを実感する事です。あのまま、不規則な生活をしていたら今の自分は無い。知らない事、分からない事、でかい態度と不遜な言動に多くの叱責と指導を受けたのは、決して無駄には出来ない。

そんな思いとは裏腹に親父の信頼度は、未だ低い。1年足らずの経験と知識ではそれも無碍ないかもしれないが、それは本意ではない。メンバー的に仕方ないとは言え、休みが続くと緊張感も途切れる。今週は2日しかない稼働日を、しっかりこなして九州に帰りたい。

母さんの13回忌。長くもあり短くもあった波乱万丈の時。区切りは着いても一つの通過点かも知れない。そんな気がする。今までの生き方が変わる訳でも、歳が若返る訳でも無い。人を見て話が出来るセンスを磨くとしても、誤解を生む馴れ馴れしさは変わらないだろう。

それでも仕事を真剣にやろうと思うなら、教えられた事、注意された事は繰り返してはならない。例えその事が本意で無かったとしても、弁解はしてはならない。その気持ちが足りなくなった時、自分は本当に必要とされなくなる事に、気付かなければならない。厳しい現実は何人たりとも避ける事は出来ない。これは仕事の基本です。

昨日は夏日でした。暫く残暑の時が続きますが季節は間違いなく、秋の気配がしています。多忙な日々に4日間の休みは、親父に英気と学びの心を与えて呉れました。今までの親父ならもう少し、無駄な休みだったかもしれません。これも成長の証かもしれません。

親父が現役の頃、研修で守屋の親父に教えられた言葉を今でも忘れてはいない。「人は人に笑われながら成長する。」人を笑う事、批判する事は容易でも、笑われながら成長する快感を実感するのは難しい。その重みが分かれば笑われる事にも理解が出来る。

あの時真剣に唱和した言葉は他にもある。「何もしないで取り澄ましている人間より、何かをして恥をかく人間の方がどれだけ益し(まし)だかわからない。誤りは正せ。守屋の顔が浮かんでくる。あの熱血講師、今でも生きているのだろうか?そうして熱弁を奮って居るのだろうか?

あの時、親父の生き方は既に≪筋肉マン≫ではなかったのだろう。「愛が無ければスーパーヒーローとは言えない」。ヒーローは求められていない。ましてやスーパーは言わずもがなでしょう。今、求められている事は確実性と豊富な知識、そうしてヨイショの気持ちでしょう。

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