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2008年9月

2008年9月30日 (火)

777ドル下落、世界恐慌、それはない。何故ならこれは必然の結果だろう。

アメリカの金融危機は懸念されていた事が現実になる。株価暴落。投資家は言うまでもなく企業経営者、企業人、多くの関係者が先行きの見通しが立たない。どんなに尤もらしい事を言っても、自分たちの蒔いた種は自分たちで刈り取るしかない。

難しい事は分からなくてもこの国の教訓は生きていない。多くの人が金利0に限りなく近い預金を、当たり前に考えて経済が成り立っているが、この危うさが今回の問題でもある。お金の手持ちが多くなれば、必然的に有利な投資を考えても不思議ではない。問題はその程度だろう。

ビバレッジとか金融市場とか格付会社とか、この賢い親父でも首を傾げる言葉が少なくない。アメリカの下院で金融の安定化の為に、税の投入が否決されたのはある意味正解だったのかもしれない。暫くは世界経済は調子に乗り過ぎた代償を払うしかないだろう。

親父も今、又試練の時を迎えている。仕事に慣れて来たが一日たりとも気を抜いた仕事はして居ない。当たり前の事を当たり前に、誠心誠意対応しているとどんなに自負しても、結果が悪ければ弁解の言葉も空しい。

久々に連続してミスを重ねる。ミスと言うには余りのお粗末な対応。1つはシャッターの前の駐車禁止の表示の位置。もう一つは火災報知誤報の不手際な対応。予期せぬトラブルの対応は問題が発生してからでは遅い事を痛感する。

今日はお休みだったが明日は仕事の前に、、必ず先日のミスのお詫びをして対応の拙さを改める。これまでもそうだった様にこれからもそう有りたい。それでも駄目ならまた道は開けるだろう。甘いか。辛いか。それは神のみぞ知る。

明日の事は明日にならないと分からないと言われるが、本当にそう思う。2つのミスは親父に対する警報であり、危機対応能力と意識が問われたのだろう。少しは慣れたと思っても実際はそうではない事を思い知らされた。この事は忘れてはならない。

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2008年9月26日 (金)

言葉の使い方、苦情対応、内閣支持率

久しぶりの連続勤務の後の2日の休み。政治も経済も社会も激動している。これからの日常は安心安全が保障されてはいない。大気も空気も水も安心安全が当たり前の時は既に去り、今は子供と弱者も例外ではなくなり、二ュ―スを見聞きする度に人事とは思えなくなる。

親父は例外と揶揄(やゆ)されても、今やどんなに力が在るかに見える人も明日はない。アメリカの金融大国がテロとの戦いではなく、思惑が思惑を呼ぶマネーゲームの破たんで未曾有の危機にさらされていると、アナリストのどれだけが予測出来ただろう。

この国の専門家と言われる人達の言葉にも無責任な発言が少なくない。そんな事をつぶやきながら自分の事を考えて見ると、平気に無神経な言葉を使って居る事に気付く。「親しき仲にも礼儀あり」「相手の言葉は自分の言葉」。お袋から言われた「言葉に気を付けろ」「言葉は一度呑み込んで話せ」の意味がこの歳になって分かって来た。

それにしても発足間もない代議士が、記者会見の場で信じられない本音を口にする。「ごねどく」「日教組の強い県の子供の学力は低い」「日本は単一民族」、飲み屋で聞く言葉ではないか!この人はある意味正直かもしれない。しかし、国会紛糾の種になるとは夢にも思わなかっただろう。

苦情対応でもそうだろう。食の安全が問われても「食の安全」とは何だろう。口にする物が安全で滋養が在るかないかで、どれだけの人が買い物をしているのだろう。本当に安全で安心出来る食物は<自給自足>だろう。自分で種を蒔き育て収穫しても100%の保証はない。

誰が育て誰が収穫し、誰が品質保証しているのか分からない食べ物を、何処で手に入れているのだろう。コンビニは何時でも何処でもをうたい文句にしているが、価格は安くない。それでも少量の買い物は便利であり、客足も途絶える時は少ない。

スーパーは生活の一部であり、食の源である。ここに来れば食材に困る事も価格に困る事もない。手頃な値段で欲しい物は何でも買える。生産地は国内だけではなく世界各地。最近食の安全が問題になっている中国産も少なくない。

消費者は何を基準に食料品を選んでいるのか?安さだけではなく買い物と予算を決めている。本当に欲しい物なら少し位は高くても気にしない。その代り量を絞る。安全は当然で万が一でも不安を感じれば口にしない。冷凍餃子の問題は忘れ去られるどころか、未だに口にしない。口にする物はそれだけ厳しい目にさらされている。

今、スーパー・百貨店の衣料品販売の競争は岐路に立たされている。昔スーパーに求められた<いかに安く、いかにお得な物を>に、流行と他に無いものが求められている。消費者の動向は日々刻々と変化し、それでも売れ筋の情報には大きく左右される。

苦情対応はさらに難しい。親父もサラリーマンの時、品質保証の仕事をした事がある。品質保証とは名の通り品質の保証。最近はマニュアル化され仕入れから製造、販売までの作業手順と完成度が明記されてるが、親父の時は厳しい視線と顧客のクレームを100%受け入れるだけだった。その原始的な手法が馬鹿にされたが、今皮肉にも見直されている。

親父の今の仕事も基本はサービス。いかに気持ちの良い対応が出来るか、毎日問われている。Ⅰ年未満のこの仕事は本当に奥が深い。どれだけの思いと反省を重ねても尽きる事はない。仕事の知識は深められてもサービスの心は未だ浅い。本当の心はこれからだろう。

今年の秋は政治的にも経済的にも波乱の時だろう。休みの昨日、近くのパチ屋が久々のリニュ―アル。50台の入れ替え。仕事をしていなかった昨年なら間違いなく、抽選の行列に並んだろう。今日は見ただけでやる気にもならなかった。(正解)。

50台の新台にしがみ付いてやっているのは、見知らぬ人ばかり。出玉を期待して遠方から駆け参じている。玉の出方もやっていた頃と大差ない。人間は何事も学習能力が問われる。長い間、大事なお金と時間を無駄にしていた頃が今は昔の感がする。

休みの日はやる事が多いが先日、自転車屋が休みで買っていなかった安いママチャりを買う。個人の店に決めたのはこれからの事を考えてから。量販店は価格も品揃えも豊富だがその点は勝てない。それどれに長短があり選択の幅が在るのが競争だろう。

自転車屋さんで防犯手続きと名前のシールを貼り、ルンルン気分で帰る。乗り心地はイマイチ。一番安い商品を考えるとやむおえない。物の価格はそんなものだろう。安くて良い物はなかなかない。中国製品がどんなに安くても全てが日本の品質に勝てる訳がない。

それが分からないから今日の混迷が在る。安物買いの銭失いだけでなく、食の危機すら現実である事を考えると、価格に惑わされる買い物がいかに危険であるかは自明である。安いのが良いのは当然でも、自分たちの生活を成り立たせるためには、それに見合う収入が無ければならない事にも気付かなければならない。それが人事の様に思われている。

生活保護の世帯が100万世帯を超え、高齢化が進みパチンコ屋で台にしがみつく若者が少なくない。こんな社会はこれから益々厳しくなる。人事ではないだろう。

今日から3日間、仕事です。お昼になりました。近くの惣菜屋さんでお気に入りの弁当を買ってきます。

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2008年9月25日 (木)

足踏みのコース、今も在るかな?むくみの足を擦りながら思う

この仕事をしているとメタボな体重の重みが26.5㎝の両足に重く圧し掛かる(のしかかる)。80kgの体重を支える足の裏を見ていると、いとおしい思いと足裏マッサージの誘惑に駆られる。今は昔、12年前に母さんと歩いた小石の足踏みコースは今でもあるの だろうか?

静岡は掛川。保健センターの裏庭にそれは在った。最初は丸い出っ張りの小石、次は土踏まずの心地よい刺激、段々小石が薄い台形になり最後は鋭くなる。足の裏の神経と多くのつぼを刺激するこのコースは隠れた健康の穴場だった。

最初は足が痛くてコースアウトを繰り返すが、慣れて来ると心地よく病みつきになる。何と言ってもやめて暫くすると、足の裏の血行が良くなりポカポカしてくる。某化粧品メーカーの足踏みコースを真似たらしいが関西では同様の例を知らない。

足裏のむくみにタオルを掛け、丁寧にマッサージをしてやると柔らかな皮膚は喜々としている。最近の健康ブームで顔、胴、腰、ふくらはぎ等と、共に足裏はつぼを押さえると何とも言えない。商売になるのも理解できる。

靴をいくら変えてもましにならないのは、最近の靴が日本製ではなく靴底が固いからだろう。安い靴を求めるのでなく、重い体重を支える2足歩行の特性を生かした靴を求めなければならない。足が疲れるのは土踏まず迄、靴底が当たるからだと思う。(違うかな)

足を鍛えるのは歩くのが一番。最近はウオーキングシューズとやらが幅を利かせているが、一番は何と言っても草鞋だろう。比叡山の荒行に千日回峰が在るが1000日、野山を駆け巡るには草鞋が欠かせずそれも一日一足だと言われている。

親父も草鞋にあやかりたいが、インターネットで注文しないと今では手に入らない。靴は安売りされても足の安売りは出来ない。足がどんなに疲れても自分でせめて揉んでやるしか手立てはない。昨日のブログで人間は考える葦(アシ)と書いたが、もう一面、足は健康の源かも知れない。

掛川には新幹線で2時間もあれば行ける。今年の春思いがけなく、2度と行く事はないと思っていた掛川に行く。今度は思い切って足踏みのコースを確かめて見るか?命なりけり小夜の中山も町のはずれにある。この峠を越えれば金谷。大井川鉄道の始発駅。

10月は親父の誕生日。長い間淡々として生きて来た感謝の思いを噛みしめても良いかも?大井川も多くのダムの所為で水量は見る影もないが、広い河原と南アルプスに続く急峻はこれから短い秋を迎えるだろう。

高所恐怖症の親父がこわごわと渡ったつり橋も、今なら優しく迎えて呉れるかも知れない。山に向かいて言う事なしとはこの事かも知れない。海外に行かなくても国内にも素晴らしい景色は一杯ある。地方は高齢化と少子化の波に過疎が重なり、財政的にも苦しい。

今でも現役の高齢者が亡くなると集落は縮小し、いずれ限界の時を迎える。親父の老いの時は今は実感なくても、ビデオやショウウインドーに映る姿に若き日々の面影はない。高齢者は田舎暮らしは無理と言われても、体をもう一度鍛え直せば何とかなるかもしれない。

手遅れかも知れないが、今の心意気を忘れなければ故郷に親父塾を開けるかもしれない。そこでは中国の先達が老年の時を過ごしたように、晴耕雨読ならぬ晴労雨ブログの生活をしたい。あなたの様な生き方をしていたら、そんな生活は出来ないと笑われても、心優しい人なら理解できるかもしれない。人は外観と先入観では推し量れない領域が少なくない。

「何でそんな言い方をするのか?」「何でそんな態度を取るのか?」人は相手の全てを理解出来ない時、顕(あらわ)に不快の思いを重ねる。そつの無い対応は必要以外の言葉と行動を取らなければ良い。その思いも忘れてはならない。それが今の当然の生き方だろう。

これも田舎生活実現の生活の知恵と思えば良い。人間は自分が思う以上に大きく変わる。顕在(自覚できる)意識と潜在(自覚出来ないが多くの思いが残っている)意識。顕在意識も簡単には変えられないが、潜在意識は自分には分からないので尚更(なおさら)難しい。

何れの意識も他人と身内の厳しい指摘で自覚出来る。多くの人は自己弁護と保身の思いを強くするが、その思いは実は自己変革の大きな原動力にも関わらず、行動が伴わない。それは人間の愚かさであり愛おしさ(いとおしさ)かもしれない。

最後にここまで拙いブログを読んで呉れた感謝の思いを込めて親父の予測。

これからの社会は都会の一部と関係者だけが、どんなに多くの言葉を語っても深刻な問題は改善されないだろう。都市の繁栄の時は過ぎ、地方の活性化が求められてもそのノウハウが分からない。地方行政の長は国の援助を求め、猫の目政府は官僚の意見に左右される。

信じられない事件と考え方、公共放送が興味本位のおちゃらけと食いもの、公私混同を繰り返しても口を開けて笑い、事の本質と背景の追及がない。食の安全とか環境破壊をどんなに口にしても、営々と努力をしながら報われの少ない農業と林業、漁業の現代を知らない。

その代償を求められた時、多くの人はもっともらしく政府、行政、関係者の責任を問う。大体食料に出来ないコメが何故、市場に流通するのか?国内の金融機関が預金者にどれだけの利益を還元しているのか?(彼等の目先は有利な運用しかない)。もっと難しい話をするとこのままドルの価値が下がると、この国の物作り、販売、物流はどうなるのか?

党利党略だけの政治にストップが掛からぬまま、今年の秋は国民の政治感覚が問われる。親父にとっては関係ない事でも、暫くは時計の振り子の様に、得点を稼いだ方が支持されるのだろうか?。親父的には今日の混迷の先延ばしはこの国の為にはならないと思うが・・・。

今日は休みです。ブログのスペースに書き足しましたが天気同様勢いがありません。それでも仕事にも慣れて来ました。これから自転車を買いに行きます。2年前の人材派遣の会社で支給された愛車もついにタイヤがすり減り、ランプは切れ鍵が付け替えられ、これが原因でどれだけ職務質問を受けた事か!

暑かった今年の夏も今度の雨ですっかり気候が変わるでしょう。今はもう秋と言うには少し早いけれど、秋の十和田、松島、蔵王、芭蕉が歩いた道を車で走ったのは君が元気だった頃。酒田の北の象潟は既に秋の気配を深めていた。

象潟(この読み方は難しい。きさかたと読みます。)芭蕉が尋ねた時は静かな入り江だったが、後の地震の影響で地続きとなり趣(おも向き)は無くなる。ここにも大好きな句がある。芭蕉はどんな思いで詠んだのだろう。「象潟や、雨が西施に、ねぶの花」

芭蕉はこの句に中国の美女とこの地の寂しさ、自分の長旅の疲れを重ね、松島は笑うが如く象潟は恨むが如しと表現している。実際に旅してみてもその思いを強くした。佐渡の島を見ながら立ち小便をした罰は、もう今は無い。そう思う。では又です。

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2008年9月23日 (火)

ゴールの時は自分で決められる。

最近の親父のつぶやきは暗い。景気の話とか金融危機がどうだとか多くの庶民に関係ない話題が少なくない。それでもこのつぶやきは息子に語る言葉でも無い。親父自身の心の一部、心の断面図に過ぎない。昨日心の優しいコメントを戴きましたが、ブログの中身は近い将来必ず心当たりになると信じています。当たらなくても競馬やエコノミストの予想より満足できるでしょう。

サラブレッド、競走馬はゴールの時にたとえハナ、クビ差でも分かると言われます。馬にテープもないゴールが分かるはずがないと思うのは素人の浅はかさ。勝てば笑い、負ければ涙を流す人が少なくなっても馬はそれが出来るのだから人間は、もちょっと賢くならんといかんかも。最近感じるけれど喜怒哀楽ではなく、喜々楽々として怒りと哀しみを見せない人が余りに多い。

人の事だからどうでも良いと思いながら、よくない事を気にもしないから、事の本質さえもどうでも良くなっているのかもしれない。少し立ち止まって考えて見る事が出来ないのは、考える事がうっとうしいのではなく、考えて見た処で何も変わらない事に気付くからかもしれない。

人間は考える葦(アシ)であると言われても言葉の意味すら分からない。パスカルの言葉すら知らない。それだけでなく葦(アシ、関西ではヨシとも言う)すら分からない人も少なくないだろう。人の営みは変わっても葦(アシ)も葦(ヨシ)も分からなくなっては御終いかも。

            パスカル「パンセ」より

人間は一本の葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦だ。人間を押しつぶす為に宇宙全体が、武装する必要はない。蒸気や水滴でも人間を殺すには十分だから。しかしたとえ宇宙人が人間を押しつぶしたとしても、人間は自分を殺すものより崇高である。何故なら人間は死ぬ事をそして宇宙は、自分より優れている事を知っているからだ。宇宙はそういった事を何も知らない。全ては考える事にある。私達が満たす事の出来ない空間や時間からではない。これこそが道徳(倫理)の原則でありモラルである。(抜粋)

パスカルはインターネットで調べて見ると、若くして亡くなっているが多くの言葉を残している。親父もこの歳になって痛感する事は「考える」事です。付和雷同この言葉も死語になりつつあるが、自己主張が嫌われる社会は健全な民主主義は育たない。

謙虚さと協調性が求められたのは高度成長の時であり、これからは人に負けない知識と対応力が問われるだろう。パスカルは人間を押しつぶすために、宇宙は武装する必然性はないと言われたが、今日の人間と文明の進化が環境をこれ程までに壊す愚かさを、どれだけ予測出来ただろう。自分さえ良ければいいと思う心と、人の思いを平気で踏みにじる愚かさをもっと感じなければ、この国の未来は暗い。

親父は今、10年先の自分を見据えている。優しいコメントを呉れた君も10年先の自分の姿を思い起こしてほしい。就職も仕事も関係なくなった親父が言うのもおかしいが、大事な事は何時も言っているが喋りです。正確には会話力、表現力、そして専門知識の広さと深さ。

当たり前の事が当たり前に理解されず、当面の事に追いかけ回されながら人は多くを語る。親父の歳になると自分が人にどう思われているか、手に取るように分かる。人は救いを求めて仏門をたたくとも言われるが、悩みは今、全くない。悩む事すらなくなったのかもしれない。

日本人は宗教にハマる人とそうでない人に区分され、自分は信じる物が無いと外人に口を滑らすとびっくりされる。余程、精神に図太いか考えが間抜けと思われるからだろう。政治と宗教と関西では阪神と最近では、他人をおちょくる言葉も禁句になっても人の優しさは反比例している。

親父の10年先はないと言われても平気です。この親父歳の割には元気でも10年先は74.アンビリバブルです。しかし平安の昔、西行法師が関西から陸奥平泉迄、東大寺再建の金の寄付を求めて旅をしたのも50を過ぎてです。今なら70過ぎでしょう。

その時の句。親父の好きな言葉です。「歳たけて、又こゆべしと思いきや、命なりけり小夜の中山」。命長らえて故郷で老いの時を、健やかに自然の中で生き方を問いたい。そして、墓を守りたい。君が30、息子達が40代。故郷はとうきに在りて思うもの。かな。

親父には高齢化社会も少子化も、環境破壊も限界集落も老齢化すら関係ない。そんな生き方が出来る体力と生活力の為に今日の苦労をある。かっこいいなあ。そんな生き方が今の自分を支えているのだろう。もうすぐ朝です。今日は仕事です。では又 ネクストタイムです。

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2008年9月19日 (金)

アメリカの金融収縮は何時、収まるの?日本の影響、我々の生活

今週になってアメリカの金融大手の証券会社(リーマンブラザーズ)が倒産、保険大手のAIGに政府の公的資金が投入され救済されている。その債務保障の金額が半端で無いばかりか、今後の予測も厳しいと断定されている。

昨年の夏、初めて耳にしたサブプライムローンの破たん。今でこそこの言葉の意味と状況の深刻さが理解出来ても、数ヵ月前までは何の事やらさっぱり分からなかった。経済のプロ達は言葉に出来なくても問題の本質は理解していたかもしれないが、なんとかなると多くのエコノミストは思っていたのだろう?違う気もするが今となっては弁解の余地すらない。

大体、我が国の財政の危機を声高に叫び、構造改革を政策の柱とした責任の重さを当事者は何と弁解するのだろう。この国の一番の問題は、細かい事は問題にしても事の本質の議論と検証が余りに無い。小泉の構造改革は郵政と道路公団の民営化、公共事業、医療費の削減、他に何があったのだろう。

安倍と福田の2年間は問題の先送りしか記憶にない。今回のアメリカの金融危機で某経済日刊紙はここ2日買えない。景気の先を多くの人が心配しているのだろうか>。それならば何の分析すら出来ない新聞ではなく、己の感性を磨くしかない。これから先は明日が見えない。

見えない明日の対応は「調子に乗るな」だろう。アメリカの様(ざま)日本の有り様を見れば本当は今日の経済と財政の危機は、痛切に感じて当然だろう。そのアナウンスをしたエコノミストはどれだけ居ただろう。その事が今問われても答えを見つける事が難儀かも知れない。

親父の今の仕事でもその事は痛感する。毎日が試練でも常に緊張感を保つ事は出来ない。調子の良い事ばかりではなく、逆の事も少なくない。どんなに物事が旨く行っても必ず不注意が出る。ミスではない。やるべき事は分かっていても謙虚さが足りなければ意味がない。

これからアメリカの金融危機はその代償を求めれれている。政府に損出の補てんを求めても限界があり、テロとの戦いどころではなくなるだろう。この国にもその決意があるのだろうか?総理総裁が変わればなんとかなると思っている国民にも、そのツケは軽くない。

親父に出来る事と言えば知力、体力、時の運を引き込める生活力だろう。この国が失われた10年と言われて久しいが、親父達団塊の世代はそれ以上の歳月を卑屈に生きて来た。「何の為に」>>>会社の為?家族の為?自分の為(これはない)多くの自己犠牲に耐えて来た。これからやっと自分の為に生きられる。そうでなければ余りに哀しい。

これからが生き様を問われる。国の在り方も全てが大きく変わる。そうでなければこの大きな変化の時を乗り切る事が出来ないだろう。勝ち組とか負け組とか人事の様に言っていた輩が辛苦の時を迎えるだろう。艱難辛苦(かんなんしんく)この言葉も死語となったが、今一度噛みしめて見ると良い。

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2008年9月16日 (火)

アメリカ発の金融危機は、この国の経済構造を変えるのだろうか?

1997年、この国は金融危機に陥り多くの税金が金融機関に投入された。あれから10年、合併と統合を繰り返し、政府の決めた公定金利(日銀ではない)にも守られ、曲がりなりにも利益を出している。それでもこの国の経済発展にどれ位の貢献が有るのか?公平で客観的な分析には出会ってはいない。大体、金利が1パーセントを切り貸出しが厳しければ一体、何処で利益が出るのか?運用しかない。運用のリスクを取る為に審査が厳しければ貸し倒れは無いだろう。

銀行がつぶれる時は過ぎ、企業と会社、個人と組織がつぶれる。これからのこの国の経済はどうなるのだろう?長い間日本経済は製造業に支えられ、物造りの技術はアメリカを既に凌ぐとまで言われているが、それでも前途多難だろう。

勝ち組と負け組はその差を一層明確にし、立場を変えるには並大抵の事では済まない。地方と東京の格差が明確の様に、疲弊と拡大を見せつける。どんなに高い技術を誇っても豊富な資金が活用できなければ成長は止まる。反対に技術力と資金力が無ければ市場からの退場は言うまでもない。

そんな事は言われるまでもない。しかし、言われるまでもない事が誰に言われているかが分からないから、市場にレッドカードを突き付けられるまで認識できないのだろう。経済の基礎的条件(ファンタメンタルズ)は見方により異なるが、何時までもドルが円に対して強い訳がない。

長い間、ドル高が続いたのも歴史的に見れば一時の事であり、暫くは1ドル100円の時が続いたとしても不思議ではない。今日の世界的な資源の値上がりの多くは思惑であり、原油の価格30ドルの時が数年前の話だから、もっと下がってもおかしくは無い。

(何で石油の価格とドルの価格が連動するの?) (ドルが下がったから原油の価格が上がったのと違うの?)   大体、ドルの円レートが120円に設定される事がおかしい。ガソリンの価格が180円?そんな価格で生活が成り立つか?道路特定財源を声高に叫んだ地方の知事達はどんな顔している?選挙の事しか考えていない。その選挙で今日の問題の種を蒔いた政治家はどんな問題意識を持っているのか?ちょっと考えて見よう。

親父的にはこの国の産業構造は大きな転換期を迎えている気がする。親父が何と考えたとしても関係ないかもしれないが、好むと好まざるとに関わらず原料価格は上がり、加工費と販売価格は下がる。当然、消費者の購買能力も2極化し安いだけでは受け入れられない。

付加価値を付けるだけでは駄目で、消費者の求めている事が分からなければ売れない。消費者はどんなに行列をしても欲しい物にはその労をいとわない。反対にどんなに安くても不要な物は買わない。食料品で半額を求める人は限られている。半額品は売れ残りであり捨てるよりはマシだからである。

ドルが下がればこの国は輸入価格が下がる。多くの原料を輸入している事を考えるとマイナス要因だけではない。輸出代金が減るが円が100円でも利益を出せる企業が生き残る。国内の消費価格もインフレに歯止めが掛かる。給与所得の伸びに期待ができなければ、消費の伸びを計るには、他には手立ての無い事をもっと感じての良い。

アメリカ企業の深刻な状況の認識は暫く目が離せない。この続きはまた明日。

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2008年9月13日 (土)

信頼、絆、そして支え合い

この言葉がそのまま、結婚式のスピーチで使えるかも知れない。平凡で面白みのない言葉が尤もらしくとつとつと語られる有様は、お目出度い席だから許されるのかも。自己顕示欲が強くて、自己中心、自分勝手、我が儘な親父は意外に「浪花節だよ人生は」が信条です。

情に弱くて涙にもろい。森の石松と言っても知らない人が多くなったが、清水港の次郎長一家、腕は強くて酒には弱い。親父とは全く違うキャラでも同じ時代に生きていたら、肩組み合って御堂筋を闊歩(かっぽ)しているに違いない。

信頼とは言うまでもなく信じて疑いの心が無い事。絆とは断つ事の出来ない繋がり。離れ難い繋がりと辞書にある。親父的には信頼とは裏切り、絆とは別れであった。これからは分からないけれど、哀しい思いをしたくなければ簡単に自分の心を決めない事だろう。

人は見かけによらない。親父の最大の欠点は初対面の印象を引きずる事だろう。多面性を持つ人の性格と感情は一朝一夕だけでなく、どんなに想いと肌を重ねても分からないのかもしれない。相性とか阿吽の呼吸とは全く違う支え合い、思いやりの気持ちが信頼に繋がるのだろう。

自我自賛、自己満足、自己本位、何と言われても凹む事は無い。これからは勝ち組と負け組がはっきりとしてくる。惨めな生き方をしたくなければ健康と生活力。活力を失わなければ雄々しく立てるだろう。人生50年は昔の話。今日では80年の設計図が無ければ駄目だろう。

世の中は大きく変わっている。親父達だけでなく全ての世代と立場を超えて大変な時です。自分は関係ないと言える結構な身分は無い。それでも切実に感じる人が少ないのは何故だろう。これから間違いなく行われる選挙でも意外な結果に終わる気がする。

この国の経済は世界に類を見ない発展と成長をしている。反対に総理大臣は2年続けて辞任。それでも責任政党の支持と期待は少なくない。こんな時代が何時までも続く事が多くの問題を引き起こしても、総理と閣僚が変わればなんとかなると思っている人達と関心すら持たない政治感覚が、手を貸しているのだろう。

そんな目線で見れば今度の選挙は全く違う結果になる気がする。マスコミと解説者、コメンテーターは全く信頼出来ない。面白可笑しく多くの言葉を語っても責任を問われる事は無い。競馬の予想新聞、トラックマン(データ収集、予想屋)、解説者と余り変わらない。

今度の選挙で親父的には民主の圧勝を予想するけれど、結果は違う気がする。地方の疲弊を政治の原因にしてバラマキ予算を求めても、この国の財政にそれだけの力が無い。消費税アップに反対では政府に出来る事は赤字国債の増加しかない。

都市の格差は益々、巧妙に進む。景気に陰りが出ても給料に伸びが無ければ消費に勢いは出ない。大した買い物が出来ない。大した行動が取れない。余裕が無くなり相手に対する言葉がきつくなる。自分に対して強い人には弱く、弱い人には愛想の言葉さえ無い。

それでもこの世の中、そんな人ばかりではない。本当に優しい人。思いやりの思いが強い人。こんな親父でも声を掛け励ましてくれる人も少なくない。そんな人は少なくても大事にしなければならない。生きて来た年月も環境も多くの事が違う他人が結びあう絆は、思いのほか弱い。その事を忘れなければ優しい思いを踏みにじる事は少ないかもしれない。

支え合う。この言葉も多くの人が多くの場所で語る。しかしこの言葉の重みは予想以上に重い。「人は一人では生きて行けない」とか「人と言う字はつっかい棒がある」とか尤もらしく語られてもそんな生き方が出来る人は多くない。それ程に人は我が儘で命は果敢ないのかもしれない。

この言葉は古くて新しい言葉。この国に建国2000年以上の歴史がある事を知る人も少ない。興味さえ無いと嘯いても(うそぶいても)己の血潮の一部は、紛れもなく日本人である。知らないだけである。無知の愚かさと国益の欠損は彼等が感じる以上に大きい事を、年を重ねるに比例して思い知るに違いない。

若くして失う物は何もないと言った処で、何も得る物は無い。実態は手にしているものが余りに小さいのだろう。貧困の連鎖と言われても実感の無い人は幸せなのかもしれない。現実は余りに哀しい。親が貧乏でもないのに学校に行けない。親が子供に出来る唯一の行いは自己犠牲であるが、最近はこの言葉さえ死語になっている。親父も偉そうな事は言えない。

長い間、支え合う人を見失っていたがこれからの老いの時を考えると、それも儘為らぬかもしれない。気儘な生活は後10年続けられる自信はあっても保障はない。終焉(しゅうえん)の時は沖縄の西表島と決めていたが、先週の母さんの法要で和尚の話を聞いて気持が変わる。

故郷は信じられない事に限界集落の時を迎えていると言う。若い世代がどんなに田舎の生活を守っても20年先の保障は無いと言われる。JRと国道が走っていてもこの有様なら、故郷を捨てた団塊の世代が今度はお役に立つ場合だろう。余計な事、出来ない事と言われても、母さんの墓守は西表島では出来ない。大阪は言わずもがなだろう。(言うまでもない)

昨年の春、この文明の利器を手にして5月の時にブログが書けるようになった。今は拙い文章だけでデジカメの写真がないが、それが出来る様になれば田舎の風景が生きる。大阪や東京で生きていると地方の風景と息使いに触れる事は皆無であり、逆も断片で役に立たない。このブログが次のステージに進めるのはそんな時かもしれない。

都会人は地方の活力を殆んど知らない。どんなに美味い物もテレビの食い物か旅番組で眺めるだけであり、口に出来る人は限られている。新鮮で手頃な値段、地方には都会人には考えられない豊かさと満足があリ、これからの生きる糧を教えている。

明日は仕事の前に空手の練習です。九州に帰る前注文した練習着は未だ来ませんが、段々、形が出来る前にお腹の凹みが見えて来ました。何よりの喜びでありこの歳で技を身に付ける事は出来なくても、何の不満もありません。人の体は意識すればこれだけ変われる事を身を持って体験したい。

健康な人は病気の恐怖を知らず、病気の人は健康の重みを痛感すれど手遅れの時が少なくない。。何とも皮肉な話でも実感できる人は少ない。病は不摂生。養生と鍛錬を怠らなければ不運も簡単に手にする事は無い。多くの人が無意識の内にその努力をしなければ、何かの病に取り付かれたとしても不思議ではない。

今月ももうすぐ半ばを迎えますが残暑厳しく、3年前に行った石垣、西表、波照間の先島諸島は台風直撃で大変でしょう。自然の脅威は当事者でないと分からないでしょう。それでも風雨の時が過ぎ去れば又、エメラルドの海に戻るのでしょう。

会社の決算概要、日経で読みました。円高の影響は大きくこれからも大変でしょう。暫くはドル安、ユーロ安が続き輸出企業は厳しいと言われても、もっと厳しいのは打開策の見えない企業でしよう。新聞の片隅に親父の元会社が一企業を子会社にしていました。

元会社は親会社の子会社になって久しい。今回の買収劇にどれだけの価値があるかは別にして、企業の生き残り戦術は成り振りはかまって居られないのだろう。久々の長文、読みこなせましたか?ちかれました。今日の巨人の試合の様です。

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2008年9月12日 (金)

お水はお酒にならず。低金利は景気の為ならず。

昔、昔、その昔、養老の水が貧乏な孝行息子の為にお酒になった嘘ばなしを聞いた事がある。さすがに今日の子供達にそんな話をしても聞く耳さえ持たないだろう。最近の子供達だけでなく大人も、年寄りに対する思いやりの心が無いと思うのは、親父の我が儘な生き方が原因であり、自業自得とは正にこの事だろう。

それでも現実の多くの出来事に眼を向けて見ると、おかしな自業と自得に出会いながら何故か、気付く事も少ない。何故だろう?みんなそれどれに思いが違い生き方も千差万別だからだろうか?それも何か違う気がする。どうでも良い事だがどうでも良くなく、これからのこの国と自分の生き方に大きな道標となる気がしてならない。

自業とは自らの業。生き方そのもの。蒔いた種は自分で刈り取るしかないと長い間、思いこんでいた事が可笑しくもあり、哀れでもある。今日の有様は何様でも無い。自分様でしかない。多くの人が多くの事を語るけれど、自分の事は自分で探すしかない。それが自得、知っとく、納得かも。

心無い人が平然として侮りの言葉を口にするけれど、自分の言動と行動に心して手を当てて見れば、結論は言うまでもない。相手の心は自分の鏡、どんなに不快の思いを重ねても鏡に逆らう事は出来ない。心を露わにしても本心は別にある生き方が、これからは求められる。

何か難しい事を考えていると引出しのラジオからクレームがつく。「おっさん、おっさん、言うてる意味が分からん」。いきなりスイッチが入り雑音が響く。何処で鳴っているのか分からずパソコンの裏を見て違いに気付く。オイオイ、大丈夫か?だいじょうぶで―す。ホンマかいな。ホンマです。親父には何故かこんな超能力がある。それは違うやろう。兄貴が言っている。

日本昔話も多くの教訓がある。知らないだけだろう。今日的出来事さえもいずれ、昔話となる。金利ゼロ。(に近い)の預金が昔あったと語り継がれるのだろうか?それはない。何故なら面白くも教訓もない。面白くなくても景気の下支えに不可欠なのだろう。これで預金者の不満が高くないのは国民性なのだろうか?

金は天下の廻りものとも言われるがそうではない。有る所には在り無い所には全くない。資本主義だろうと共産主義だろうと同じ。イスラムだろうと新興宗教だろうと変わりはない。金が欲しければ爪の先に火を灯せなんての言葉は今はない。

話は戻るが戻らなくて良い。某国営放送の「英語でシャベラナイト」。母さんが好きだった寅さんの英訳に挑戦している。次回は15日の月曜日。PM11.00からです。寅さんの口上は日本人でもしゃべれない。寅さんの優しさと間抜けさはもっと分からないかも知れない。

言葉で物を売る。言葉で人に何かを語る。言葉で人情を現わす。寅さんは誤解もされたが日本人の原点かも知れない。朝になりました。今日は金曜日。親父は相変わらずですが少しづつ、変化しています。今度会う時まで更なる飛躍を祈念しています。ではおやすみ。行ってらっしやい。

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2008年9月10日 (水)

志を果たして(お金を貯めて)、何時の日かではなく必ず帰る。

13回忌は無事済みました。7回忌は出来なかった事が大きな支えになっていました。トンネルの出口を彷徨って(さまよって)いたのが、今は懐かしくもありますが当時を思い起こせば、苦しみと悲しみに寂したと空しさが重なり、今、こうして生きて居られる事が不思議かも知れません。

人は生きる術を無くしても簡単にはくたばりは出来ません。しかし、不老不死の妙薬はどんなに求めても手にする事も出来ません。今可能な事は6ヵ月先の己の健康と生活力をさぐることでしょう。自分ではどうする事も出来ないと思い込んでいる事が、実は全くの思いこみでしかない事が証明出来るに違いありません。これは親父の実感であり体感でもある。

久しぶりの豊後の故郷は高速道路が延長され、空港から2時間足らずの近くになっていました。親父の若き頃はこの倍の時間が掛かり、旧国鉄の旅は大阪までの長旅でした。この歳になって考えて見ると、全ては幻であり夢でした。今、アメリカンドリームが時代の変革の中で音をたてて崩れ落ちていますが、親父達の地方から都会の移動も終わり、これからは逆流の時でしょう。老いては子に従えでなく、大地と大気の恵みの中で優雅に生きる事でしょう。

田舎の菩提樹の和尚は故郷は既に収縮し、これからはその勢いが加速すると言われていたが、今こそ故郷を後にした45年前の思いを思い起こせば、新たなる生き方が出来るだろう。これからはそんな生き方をしなければならない。

今、大阪で生きていると田舎は能勢に行かないと見れない。少し足を延ばせば親父の原風景は見れるけれど、生活実感はない。天気が良ければ田畑を耕し、雨の時はブログを書く。悠々自適の生活、これからの日々はどれだけ続くか分からないけれど、健康と経済的に余裕があればそれも又、有りかもしれない。

これからの生活はグリコのおまけです。お間抜けにならない為にも自己研鑽(けんさん)あるのみかも。この国の経済はグリコそのものです。1粒で2度美味しい思いはとっくの昔に無くなっているのに、その味は財政危機の時を目前にしても分からないのだろう。

経済の基本を知らず、政治家さんにどんなにその思いを託しても、無い袖は振れない。世代交代の波は容赦がない。団塊の世代から新世代と言われても何も変わらない。変われる事と言えば「寄らば大樹の木」では余りにひどい。願わくば思い違いでありたい。

故郷の山並みを見ながらそんな事を考えていた。「山は青く水は清き、空も森も生きていた」木々は手入れが行き届き感心して見ていると、放置され森林破壊も進んでいた。都会で幾ら尤もらしく環境問題を語ってみても、地方の山は間違いなく老いの時を迎えていた。

次の世代が生きる頃、手入れの行き届かぬ山と木々達はどんな姿に変わるのだろう?今年の夏、都市は異常に暑く多くの地方が風水害に見舞われた。それでも人は生きられる。経済の価値さえ見失われた地方の山は、これから人々にどんな思いを語るのだろうか?

故郷の食いものは格別だった。全てが格別。鯵とネギのたたき丼。サンマの塩焼き。魚があまり得意でない親父の顔が崩れていた。嬉しい事にこれからは産地直送、新鮮な魚が手頃な値段で都会人も口に出来るだろう。

地方の過疎、森林破壊、地方の衰退、多くの言葉を都会で聞いていたが、どっこい、地方は逞しく(たくましく)生きていた。今、都市の環境を語る言葉は正確ではない。理由は唯一つ無知と無恥(厚顔)。他人を顧みずして自己を語るな。自己を語る時、多くの未知を語れ。未知の思いが無ければ語る言葉の軽さに必ず、思い知らされるだろう。

2泊目の宿は唯、立派で感慨ひとしおだった。予想以上の贅沢に言葉は少なくなかった。それ以上に嬉しかった事は、背中を洗って貰った事。近くの銭湯で知らぬ親父が息子に背中を洗って貰っているのを見て、1度はやって貰いたいと思っていた。

世辞の旨い下の息子に出来て兄貴に出来ない事。それはこの程度の事かも知れないがそれでも嬉しかった。「親父、背中にまだ張りがある。シミもしわもない」。その言葉に思いやりの思いが重なっていた。ありがとう。母さんと伊豆の稲取には行けなかったがこれで充分です。兄貴は嫁も同行していたので多くの思いも語れなかったのだろう。

それもまた良しとすれば良い。冗談でも親父は健康でなければ老いの時は惨めだろう。誰が面倒を見て呉れるのだろう。これも多くの年老いた世代に突きつけられた課題だろう。思いのままに生きるには高いハードルを乗り越えなければならない。

この歳になって空手の手習いを始めたのも、大きな要因です。メタボな体を引き締めてもう一度、生きる力を身につけなければならない。記憶の多くを無くして食事も儘ならぬ義父を病室で見ながらそう考えていた。

もうすぐ朝です。親父の減らず口も変わりそうにありません。留守の間、多くの検索ありがとうございました。

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2008年9月 5日 (金)

いよいよ、明後日、帰ります。

母さんの7回忌は親父の都合で出来なかったが、今週末、やっと帰れます。12年間色んな事が有りましたが、全ては過ぎ去りし日の川の流れでしょう。あえて恰好を付ければ大事な人が元気な時に、我儘な生き方をした代償だったのでしょう。その事を1日足りとも忘れず生きて来られた定めにも、感謝しなければならないかも知れません。

いずれにしろ、思いがけない人生の悪戯(いたずら)は、親父だけでなく大切な人の寿命さえ変えてしまいました。お墓の前で君に掛ける言葉は少なくても、ばあちゃんや義母には詫びる言葉が有りません。それもこれも多くの思いも何も語らずとも、手を合わせるだけで分かるでしょう。明日、遅くなりますが明後日、寝過ごしをせず9時過ぎの飛行機に乗ります。

見守って下さい。そして新たなる力と勇気、幸運を与えて下さい。

今日もお休み。パソコン台のテーブルの下が小物入れがバラバラで、見苦しくなり気になって整理ボックス買って来ました。予想以上にピッタリとしてすっきりしました。何時まで続くかな?1度綺麗にすれば汚さない気もするが、親父の事だから無理かもね。

今、テーブルの上、パソコンの横には明後日持ち帰りを忘れないように、母さんの位牌がでんと鎮座しています。仏壇の中で長い間、少し離れて見ていた人がまじかです。今日は何かと買い物にも追われましたが、明日は仕事をこなすだけです。

夕食の買い物、大豆のハンバーグ?とキャベツ半分、玉ねぎ1個、卵1パック、リンゴとナシ1個買いました。大豆ハンバーグはイワシハンバーグの姉妹品。メインはイワシだけれど苦手の人には大豆がある。3個入り600円。ちと高いが味と栄養は満点。販売の青年が一昨日、納品時、好感を与えて呉れた。買わない手は無かった。

今夜は早く寝ます。と言っても今はAМ1時前。明日もこれ位に寝ないと明後日、朝起きれないかも。君も仕事気を付けて。では空港で会いましょう。

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2008年9月 1日 (月)

眼球の検査、きーちゃん、そして

今月も今日で終わり。明日から9月。皮肉にも昨日までのはっきりしない天気も、今日は嘘のように真夏の日差しを受ける。休みの3日目、早起きして所要を済ませる。これからの高齢化時代を生き抜く為の条件は健康。年老いたとは言え自律しなければならない。

10年先の事は分からないが、5年先の自分の惨めな生き方が見える。此の儘では間違いなく格差は広がるだけでなく、多くが生活の立て直しを迫られるだろう。噓だと思うならこれからの景気動向に注目し、浪費を慎まなければならない。常識的に見て現在の景気は余りに厳しい。

休みの初日、近所の掛かり付けの眼科に行く。左の眼がうっとうしく右は黒眼の淵が微かに見える。10年前から充血の度に診断している先生が、表情も変えずに検査の手順を進める。しかし、内心で笑っている。「左がうっとおしいのは白眼の潰瘍(かいよう)が微かに剥がれている。右眼の黒眼の淵は左の眼が無理をして見ている。」いずれも心配はない。

検査の結果を簡潔明瞭に説明をする。それでも気になって聞いて見る。「歳の所為ですか?」「歳の所為ではない。歳にしては眼が活きている」お世辞でも嬉しい。両眼のカラー映像を見せながら、毛細血管がしっかりとしていると言われる。1年前の頭の輪切りのレントゲン白黒写真を思い出す。「親に感謝しなさい。血管の丈夫さは自己管理ではない。」

両親は死んでしまったが健康な体は生きている。母さんが亡くなる前から太り始めていたが、今ほどではなかった。こんなに太ったのは食い過ぎ以外何ものでも無い。運動不足で食事量が多ければ必然の結果だろう。仕事をしていなかった事を幸いに太り過ぎた。

今、メタボ以上の体重と血圧は順調に下がっている。自己管理の難しい頭と眼の血管は親から丈夫な物を頂いている。その事に感謝しこれからも生きて行かなければならない。人間には無限の生命も力も金もない。その事が分かれば生き方も変わるだろう。変わらなければ間違いなく薬に頼るしかないだろう。その事さえ分からなければ長くは生きられない。

眼医者の後、思い立ってキーちゃん(きさら)を訪ねる。4年前の突然の別れ。1年近く、この親父になついて呉れたのは、何だったのだろう。まだ年少の幼子は「おじさん、お名前は?」とハニカミながら聞いてきた。「くーちゃんです」。クーチャンとオオム返しに答えると忘れる事は無かった。5つ違いの姉さんがユーリ。キイちゃんと会うのは昨年の暮以来だった。

小学4年生に成っても幼き面影は在り、それでもシャイになっていた。今更クーチャンとも言えず、親父の言葉に答えるだけだった。「体に気を付けて大きくなれよ。しっかり勉強しろよ」それだけで充分だった。姉さんは中学3年生。塾に行っていた。

近くの床屋で散髪をする。これも昨年の暮れと同じ行動。違ったのは帰りに店の息子の送って呉れた事。郊外の田舎のお店では街中とは違うサービスが求められるのだろうか?前、仕事していた店は、立派な建物とは裏腹に活気がなく、帰りの道の片側に24時間営業のスーパーが開店していた。床屋の主人によれば繁盛しているとか。駐車場の車も多かった。

高級住宅地と言っても全てが金持ちではない。夜半に買い物をする客もいるのだろう。この街が大阪を代表する住宅地として君臨した時は、今や昔の話になっている。これも時代の流れであり上流と下流の分岐点は僅かな違いかもしれない。しかしその差には天と地以上のものがある。この国がどんなに栄えてもこの差は如何ともし難い。願わくばせめて中流でありたいと思うささやかな気持ちも、容易には手にする事は出来ない。その事を痛感する。

キイちゃん達が大きくなった時、親父達は居ない。その時のこの国を支えているのは誰だろう。国の形は見えないが自分たちの生活は、大丈夫だろうか?案ずるより産むが易しかも。しっかり勉強して頑張ってください。これからの社会は経済的だけでなく、知識と知恵が多く問われるに違いない。

昨日、又、靴を買った。この前(どれ位前だろう?数か月?)買った5000円の靴が駄目になる。左の親指とその付け根が当たる部分が凹んで、外反母趾?(がいはんぼし)状態。むくみ感がする。安物買い?最近の靴は親父の様なメタボな体重を、支えられないのだろう。

今回手にした(足にした)靴も、間もなく凹むだろう。人間の肉体は美しいとか言われるが、親父の左足は80kgの体重を必死の思いで支えているのだろう。本当は息子の様にもっと高くて丈夫な靴が求められているのかもしれない。歩く事が求められると良い靴が必需品かもしれない。靴の重みはそれ程に大きい。

昨年の暮れからこの仕事を始めて感謝する事は、働きながら減量の喜びを実感する事です。あのまま、不規則な生活をしていたら今の自分は無い。知らない事、分からない事、でかい態度と不遜な言動に多くの叱責と指導を受けたのは、決して無駄には出来ない。

そんな思いとは裏腹に親父の信頼度は、未だ低い。1年足らずの経験と知識ではそれも無碍ないかもしれないが、それは本意ではない。メンバー的に仕方ないとは言え、休みが続くと緊張感も途切れる。今週は2日しかない稼働日を、しっかりこなして九州に帰りたい。

母さんの13回忌。長くもあり短くもあった波乱万丈の時。区切りは着いても一つの通過点かも知れない。そんな気がする。今までの生き方が変わる訳でも、歳が若返る訳でも無い。人を見て話が出来るセンスを磨くとしても、誤解を生む馴れ馴れしさは変わらないだろう。

それでも仕事を真剣にやろうと思うなら、教えられた事、注意された事は繰り返してはならない。例えその事が本意で無かったとしても、弁解はしてはならない。その気持ちが足りなくなった時、自分は本当に必要とされなくなる事に、気付かなければならない。厳しい現実は何人たりとも避ける事は出来ない。これは仕事の基本です。

昨日は夏日でした。暫く残暑の時が続きますが季節は間違いなく、秋の気配がしています。多忙な日々に4日間の休みは、親父に英気と学びの心を与えて呉れました。今までの親父ならもう少し、無駄な休みだったかもしれません。これも成長の証かもしれません。

親父が現役の頃、研修で守屋の親父に教えられた言葉を今でも忘れてはいない。「人は人に笑われながら成長する。」人を笑う事、批判する事は容易でも、笑われながら成長する快感を実感するのは難しい。その重みが分かれば笑われる事にも理解が出来る。

あの時真剣に唱和した言葉は他にもある。「何もしないで取り澄ましている人間より、何かをして恥をかく人間の方がどれだけ益し(まし)だかわからない。誤りは正せ。守屋の顔が浮かんでくる。あの熱血講師、今でも生きているのだろうか?そうして熱弁を奮って居るのだろうか?

あの時、親父の生き方は既に≪筋肉マン≫ではなかったのだろう。「愛が無ければスーパーヒーローとは言えない」。ヒーローは求められていない。ましてやスーパーは言わずもがなでしょう。今、求められている事は確実性と豊富な知識、そうしてヨイショの気持ちでしょう。

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