春霞の中に街並みはあった。しかし梅田は見えず
仕事、3ヶ月が過ぎ大分慣れてきて冗談が多くなり誤解を招いている。その度に厳しい注意を受けている。冗談も程々にしないといけないと最近痛感している。冗談は通じる人とそうでない人がいる。冗談も通じないほど余裕のない仕事をしている訳ではない。立場を弁えぬ(わきまえぬ)慣れ慣れしさが鼻持ちならないのだろう。
「勝手な判断をするな」とも言われる。親父もサラリーマン現役の頃言っていた気がする。しかし多くの人が例外的な対応を様々な価値観で判断し、結果責任を負っている。そうでなければ仕事は出来ない。任せるとはそういう事だと思うけど今の仕事の進め方に不信感を持たれる事は本位でない。指摘された事は必ずメモし改善を計る。同じ轍を踏む過ちだけは繰り返してはならない。それが出来れば必ず自信と誇りが持てるだろう。
毎日の仕事の中で最近感じる事は自己防衛です。親父のように自己顕示欲の強い人は特に意識して行動しなければならない。自分の価値観の押しつけは一番嫌われる。馴れ馴れしい言葉と態度、心を開いている人ばかりではない。大阪の気安さは今の常識ではない。
本当に心の狭い人、ねじ曲がりの人、同じ大阪人かと思われる人も少なくない事を痛感する。力のある人、権限のある人に逆らう根性はなくても自分より弱い立場の人には、平然と主義主張を振りかざす。信じられない行動と言葉に唖然とする事も少なくない。
大阪のおばちゃんは強いと言われるがこの言葉の裏返しとしておっちゃんはどうだろう?品性がない。こんな事はブログでないと言えない。おばちゃんが強くておっちゃんに品性がなければ必然的に態度と言葉使いに要求されるレベルが高い。その事が分かって来た。
それでもそんなに悲観的になる事もない。もちろん気持ちの大きな人、優しい人、ほっとする人も少なくない。そんな人に甘えてはならない。調子に乗ってもいけない。自分の立場と役割を充分に考えて行動しなければいけない。やるべき事に全霊を傾注し、余計な事をしてはならない。これからの課題です。毎日、仕事始めにメモを見て忘れずに実行あるのみです。
日々の出来事の中に他人事とは思えぬ事象も少なくない。閉店業務の時、買い物客の若くもない2人連れが平然とクレームの話をしている。下手な対応は出来ない。難グセをつければ何でも出来ると思っているのだろう。この仕事の難しさだろう。
難しい事が山積している。景気の低迷が確実視されても打つ手がない。今から30年以上前日本経済が直面したオイルショック以上の危機が目前に在る。それでも豊かさと安定の社会に慣れた多くの人々にその実感は未だ無い。現実の問題となったとき如何対応するのだろう?
親父的には関係ないと思われてもこれからの生活弱者の働きの場は厳しい。生活弱者はこれからもっと多くなり景気の足かせとなる。当然ながら収入に応じた買い物しか出来ない。それだけではない。国内消費の落ち込みは企業収益の低下に繋がる。日本型経営の弊害のみが問題になり、メリットが生かせなければ経済の再生はない。
イギリスの経済紙が日本の政治と景気の低迷、世界のお金の流れが日本から流失していると批判している。しかし、この国の物造りと労働者の力を過小評価している。イギリス病と言われた時を克服しても今日のイギリスにこの国を上回る物造りの技術はない。
違うのは豊かさの価値観だろう。外国からの批判でこの国は「エコノミックアニアル」と呼ばれた事がある。さすがに最近言われないのは世界が日本化されたからだろう。経済の非情さと無常を比喩(ひゆ)し嘲笑う事は今も昔も変わらないのかもしれない。
この国の政治と経済の報道の仕方も今日的課題を、見誤りアメリカとイギリスのエコノミストの意見を代弁するのではなく、真摯(しんし)に問題の本質に迫らなければならない。アメリカの経済に赤信号が点滅してもイラクの戦いを止めない、止めれない現実がいみじくもその事を教えてはいないだろうか?サブプライムの問題は殆んどの人が分からない。
しかし、間違いなく世界の経済大国の金融危機は指導者の交代がなければ、改善しないかも。この国の景気の動向はどうだろう?春、爛漫の時、ガソリン価格が下がらないと無理かも知れない。現実的には難しいけれどこのまま無策の時を重ねていると、何が起きるか分からない。
これから遅い買い物に行ってきます。買い物は小田原の干物とカット野菜、京都の豆腐。レーズンパイと伊予かん。コロッケ2個、鮭のフライ、ねばねばつけもの(半額)。しっかり買い物しているでしょう。健康は生きる糧。しっかり食べてしっかり寝る。これからは体が資本。病気したらアウトです。
久しぶりに五月山に登る。住まいから片道3キロの散策コース。仕事を始めて初めての山登り。ゆっくり歩いて30分。ウッドデッキの展望台から見える町並みは春霞の中にあった。天気が良ければ生駒の山から大阪の街並みも見えるのに、今日は靄っている。(もやっている)。山の散歩道は明るくなっていた。以前の茂みも刈りこまれ若葉の時を待っていた。
体の調子はさすがに歩き慣れてはいたが、呼吸に乱れはあった。久しぶりの山歩き。木々の息吹は目前でもじっと沈黙の気配で、親父の歩きを見ていた。「息切れ」はしなくても股関節の動きに滑らかさはなかった。「メタボな腹何とかしろ」そう言われていた。
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