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2007年12月20日 (木)

久々の野田阪神

じいちゃんは職業軍人だった。明治の日清、日露の大戦に勝利したこの国はその後、アジアの覇権をアメリカと争い、無条件降伏と言う惨めな屈辱を味あう。それだけではなく尊い人命と財産の多くを失い、国土はアメリカのじゅうたん爆弾(この戦争責任は問われていない)で焦土と化す。あの戦争は一体何だったのか?じいちゃんの思いを聞く事は無かった。

それでもじいちゃんは機嫌の好い時、ぽろりと本音を語る時があった。「あんな惨めな戦争をしてはイカン」「人の屍の始末も出来ない戦いの現場を内地(国内)では分からん。」「戦争の勝ち負けは精神論ではなく工業の力、その分析すら出来ない参謀が作戦、指揮する戦いの結果は見えていた」。幼心に38,9で軍人の肩書を失い、失意の日々を過ごす親父に感謝していた。戦後60年、この国の姿を見て何と思っているだろう。

先日、研修中の日当受け取りに大阪市内に出向いた時、親父の戦後を思っていた。この国はアメリカとの戦いに負けた後、平和憲法のもと陸海空の軍隊を持てない国になり、敗戦後暫くアメリカの占領下におかれる。しかし戦いの無い時は長くは続く事もなく、朝鮮半島の南北の戦いと共に保安隊、自衛隊と名前を変えながら再軍備の道を歩む。戦前と違ったのは日米協調と言う名のまやかし。軍隊に侵略を目的と言う国が何処に在るのか?

親父は貧しい生活の中で二度と軍隊で生計を立てず、健康を取り戻すと土方仕事で日銭を稼いでいた。これから暫く同じ人生を歩むけれどあの頃の親父の苦労を考えると、比べ物に為らない。幼いガキの中で戦後に生まれた弟が可愛かったのも、当然の結果だったろう。

それでも2男の私に大阪に出る時、「自分の人生、親の事は心配するな」と言ってくれた。今とは違って帰省の時は盆と正月。初めての年末、背広を買って帰省した時の柔和な顔を忘れる事はない。あの時19の時、白黒のテレビで見た紅白をこれから見る事は無いだろう。

あの時、大阪の街も薄汚れていた。地下鉄は御堂筋線だけで市電が街中を縦横に走っていた。あれから45年、大阪の街中は綺麗になっているが地下鉄の長い階段を、どれだけの年寄が歩けるのだろう。そんな事考えながら懐かしい道を本町から川口町、野田阪神まで歩く。

何度も若い頃見た風景とはすっかり様変わりしているが、市電が無くなり地下鉄に変わったからだろうか、地上に人影が少ない。車がやたらに多い。大阪の地盤低下が叫ばれて久しいが自分の足で歩いて見て実感する。これでは年寄りや障害者は生きれないだろう。

これから健康弱者は車いすで手軽に都市に出かけられだろう。野田阪神の駅の周辺は放置自転車で一杯になり見苦しく、管理の責任が明確でない。駅までの足が自転車しか無いのなら何らかの手は関係者は打てないのか?懐かしい駅は繁栄と無管理の中に在った。

地方も国も財政難の中で多くの手が打てないが、余りにもお役所仕事でこの国の未来が案じられる。こんな時生活弱者は何に活路を見出せばいいのだろう。親父(自分)もこのブログで多くのボヤキを書き連ねたが、今年もあとわずか、来年の事は分らぬが良くなる事は無い。本当に悪くなるのは弱者のみ。だからその事を忘れてはならない。

親父は知らないと息子から言われるが、息子達が知らない事も少なくない。大阪のおばちゃんは元気と言われているが、その元気さが何故、大阪の地盤アップにつながらないのか?本音の話だけではお笑いであり、食い物や買い物の話だけでは能が無い。大阪だけでなく日本各地の低迷は余りにも先々への未来図が無いのかもしれない。

本町で美味いカレーうどんを食す。海老入りで780円。親父の定食屋さんがまた1つ出来た。ポッケに一杯の小銭から100円玉を8枚重ねて支払いを済ます。店員の元気が味の良さを証明していた。

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