教育とは?生きるとは?
教育再生会議で教育の在り方を問われるまでもなく、子供たちは何の為に学び、親は何の為に学ばせるのか、今一度、考える必要がある。岐阜の揖斐川上流、久世の旅籠で特攻で戦死した人の手紙を見たことがある。父母に感謝の言葉と弟に教育のお願いがあった。
あの時の死に行く思いの中に教育の大事さを父母に言い残した英霊は、今日の平和と豊かさ、そして義務の重さを感じていないガキ共と無責任な親たちをどんな思いで見ているだろう。家庭で子供の躾すら出来ない親に、学校は何を教えれるのだろう。学校に出来る事は明るく、楽しく、学び、育つ事だろう。友達と仲良く、先生を敬い規律を守る。それが学校だろう。何で学校で弱い者をいじめ、自殺まで追い込むのか?教育の現場で何が出来て何が出来ないのか?管理者の責任は重い。教育委員会の在りかたも問われている。
今、国も親たちも教育関係者も先生たちまでもが、勘違いしている、教育の再生を何故、国がやろうとするのか分からない。問題の原因は行政に在り本当に教育の再生を為さんと思うなら隗から始めよ。いじめ、登校拒否、学力低下、教員の資質低下、その当事者の責任を問わずして何をどう変えるのか、そんな問題ではないだろう。
一番の問題は自らを変えないで何を変えるのか?文部科学省が今日的課題に現場を教育委員会に任せて奇麗事を並べても問題の解決は無い。親父の子育ては終わりこれからは迷惑かけない生き方をしなければならない。それでもこれから教育に関わる人には役に立てる。これからそんな生き方もしなければならない。
教育水準は高くても学力が高いとは言えない。学力に差があるのは当然であり運動力の差も同じである。勉強が出来なくても生きて行く術を知れば良い。マラソンで一番は一人、完走すら出来ない人も少なくない。偉そうにしている大人でも同じ生き方をしている。一番は一人で多くが負け犬、それなのにかっこつけているだけである。真の勝ち犬は無言である。
特攻とは何かもう知らない世代が多くなる。太平洋戦争末期、沖縄近海のアメリカ戦艦攻撃の為、航空機に爆弾と片道の燃料で少年飛行士に突入を参謀本部が命じた攻撃。国を守るとはこんな事でいいのか?どうしてこんな事になったのか?こんな負け戦をしない国になってほしい思った少年兵の思いを忘れてはいけない。でも殆どの人がそんな事は知らない。
教育の重みは本当に大きい。何を学び、何を生かすのか?本人次第であるが親と友達の影響も少なくない。親以上に繋がりが深まる中高生になっていじめや無視されれば如何すればいいのか、親も教師も知る術もなく当然力になれない。どうすればいいのか?その改善の方法も知らず親であり教師でもある。そんな時当事者は如何するのだろう?
今、賢い親と教育者は問題が表面化して行動しても手遅れであることを知らねばならない。自分には関係ないと思われる事が本当にそうなのか考えてみる必要がある。子供達は親と教育者の反面教師です。どこまで許されるのか、手探りで生きているのです。
些細な事でも、許せる事と許せない事を明確にする事。やってはならない事は見逃してはならない。今の時代、みんな忙しい。見逃す事もある。だから難しい。それでも傍観者にはなってはならない。この世の中、子に恥じない生き方をしましょう。
平和で豊かな社会も意外にもろい。警察官が不正をしても珍しくない。警察の親を要らないと言って寝ている処を斧で撲殺される。昔はこんな事は無かった。警察官が愛人?をピストルで撃つ。この警察署責任者はどんな処分されても銃殺以上の屈辱は無いだろう。
これは例外です。それでも国家、警察、社会組織に歪みは出ている。教育現場も同様。これから先生になる人は命がけだろう。傍観者になれない。当事者として生徒、保護者に向き合わなければならない。それだけの決意があるのだろうか?今のガキどもは本当に賢い。
親父は頑固だった。それでもゲンコツは息子達だけだった。子供達に真剣に向き合うなら体罰も止むを得ないが、今はそれも出来ない。言葉で分からない子供達に言って聞かせる事は難しい。言葉で分からせられない時、どうするのだろう?言葉に無い力、それは愛情ではない。言葉に変わる力は厳しさだろう。体育会系の力が要る。これが現実です。
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